平沼騏一郎の話

LINEで送る
Pocket

 起承転結の「転」がすごすぎて毎日楽しく読んでいる『産経新聞』の「産経抄」に、平沼騏一郎の話がのっていた。最近だと平沼赳夫の養父で、父子ともに国家主義者、などと解説されたりする。

 一般に平沼と言えば、そんな首相もいたかなあ、くらいか。
独ソ不可侵条約を知らされて「欧州の天地は複雑怪奇」の一言を残して辞職した首相として有名。日本近代史を専門にしている人以外では、検察官出身の枢密院議長?政党内閣をいじめていた人?元祖検察ファッショ?右翼?観念論者?とか。

 もう少し詳しいと、社会主義的な「革新右翼」に対して、「観念右翼」だったので、実は戦争には反対だった。最後の元老西園寺公望に嫌われていた事実に騙されてはいけません。彼は戦争に反対していた平和主義者なのです!などと絶叫する人もいる。

 以上、特に間違いではないが、何だかよくわからないであろう。
「右翼=戦争を推進する人=軍国主義者=ファシスト=悪い人」などという、短絡化と呼ぶのもおこがましい、途中から間違っているこのような図式で説明されることも多いので普通は混乱するのだが。

 本日、私がお話しする、たぶん間違いなく私が最初に紹介した平沼の一面を示す挿話。
法律家としての平沼騏一郎。

 平沼は、検事総長として司法官僚の頂点を極めた後、長らく枢密院副議長をつとめた。
枢密院とは、重要法案を審査する機関である。内閣の法制局の仕事を監視(チェック)する機関である。
平沼は政党内閣、特に民政党内閣と激しく対立したと言われる。
なぜ副議長が長かったかと言うと、西園寺公望元老がなぜか平沼を嫌い、議長にさせたくなかったために、倉富勇三郎という人畜無害の人物を議長に据え置いたからである。
この倉富、どれくらい人畜無害かというと、ミミズの這うような細かく汚い字で(もはや崩し字とよびたくない。大泣)、とんでもない量の日記を書いているのである。二階に上がって電話があったので一階に降りただけの間の話で一頁使うほど、何でも記録しているのである。こんな日記を残すような人が、重要人物な訳がない。私は『倉富勇三郎日記』(国立国会図書館憲政資料室所蔵)を「現代のロゼッタストーン」と呼ぶ。。。

 第二次若槻禮次郎民政党内閣が、安達内務大臣一人の造反で総辞職の決定をした際の話。

『倉富勇三郎日記』昭和六年十二月十二日、から。(以下を翻刻するのに三十分はかかった)

二上又今朝、副議長(平沼騏一郎)ニ面会シタル処副議長ハ若槻(礼次郎)ハ安達(謙蔵)ハ他ノ閣僚ト意見ヲ異ニシ協力内閣ヲ主張シ閣内不統一ノ理由ニテ総辞職ヲ為シタリトノコトナルカ此ノ如キ場合ニハ総理大臣ハ安達ノ免官ヲ奏請シテ宜シカル可キコトナルモ之ヲ為サスシテ総辞
職ヲ為スハ如何ナルモノナリヤト云ヒ居リタル如何ノモノナルヘキヤト云フ予大臣ハ勿論陛下ノ親任シタマフ所ナルモ一放〔一方〕、総理大臣カ内閣ヲ組織ストノ語アリ事実亦総理大臣カ選択シテ上奏スルコトニナリ居ル故其大臣ノ統一カ出来サルハ即チ人選適当ナラサリシトノ責任ヲ負フモノニ非サルヘキヤ

 要約すると、どうやら「憲政の常道」に従って野党第一党政友会総裁の犬養毅が次の総裁になるらしい政変の日の朝、枢密院書記官長(事務局長のようなもの)の二上君が有力者の平沼さんを訪ねると、平沼さんは「一人の大臣を罷免できないで内閣総辞職しなければいけないのはおかしくないか」と主張し、それを議長の倉富さんに伝えると「やっぱり、裏切るような駄目大臣を天皇陛下に推薦したのは総理なんだから、その責任はあるんじゃね?」と、当時の通説で返している、というやり取りです。

 平沼さん、倉富が言うような通説は当然理解しているわけでございまして、その問題点を指摘しているのだが。
帝国憲法下における内閣総辞職で最も多い原因が内閣不統一なことは、当時の法制官僚は問題にしていたのですね。これだと一人の大臣のワガママで内閣がすぐ潰れることになるので。
当時の法制局などは「天皇に任命を推薦した以上、罷免の奏請もできる」との解釈を打ち出そうとしていたのです。平沼はそれに賛成しているという史料です。
ただし、倉富の言うような通説を覆すには至らずに敗戦を迎えます。

 平沼さん、「政党内閣の鬼門」「戦前で最も民主的だった民政党を蛇蝎の如く嫌った右翼の頭目」のように言われるのですけど、日大法学部を事実上作ったような人で、刑法の大家の法律家です。
自分の政敵の若槻民政党内閣に対する言動でも、法律家としての信念に基づいていた、ということです。

 一次史料を丁寧に見ると、固定観念に基づく批難は覆るという事例でした。