「寺内対原」カテゴリーアーカイブ

寺内対原(5)―是々非々とは―

LINEで送る
Pocket

 戦前日本において、「軍部が強く衆議院が弱かった」と主張される方に問いたい。

一、なぜ西園寺政友会内閣を潰した後の元老会議で、宮中入りしていた桂太郎が言い出すまで、誰も総理の引き受け手がいなかったのか。・・・内閣を潰した勢いで政権奪取なり、傀儡政権の樹立をすれば良いではないか。

ニ、なぜ、海軍出身の山本内閣は、海軍にとっても権限縮小になる、軍部大臣現役武官制を廃止したのか。・・・これでは与党政友会の言いなりで、山本は原敬政友会総裁の傀儡ではないか。

三、なぜ、陸軍の総帥である山縣元老は、山本内閣を打倒する際に、大隈重信のような過去の人となっていた政治家を必要としたのか。・・・実際に総理になられるとひどい目に遭っている。

四、大隈内閣の閣僚は第一次護憲運動が敵視した桂内閣の閣僚とほぼ同じなのに、問題の「二個師団増設」を実現している。たった二年間に何があったのか。

五、そもそも「軍部」の定義は?これって今の「官僚機構」の定義くらい曖昧では?

 これに対する回答は、別の場でできればと思っています。

 少なくとも戦前の日本を駄目にしたのは、「軍部」「軍ファシズム」「陸軍」「天皇(制ファシズム)」「財閥」などとする史観では、説明できないでしょう。「天皇」とか「ファッショ」に持っていくのはまったくの誤謬であり、結論先行の議論であるとは、散々書きましたので。これらの結論のよって、完全に免罪されてしまっている人がいるのですね。罪とはもちろん、戦争に負けた責任のことです。その免罪された人たちは、戦後ものうのうと特権を享受して、今に至っても同じように政策を間違えて、失敗のつけを若い世代に回している訳です。

 これまた謎解きに、乞御期待。

 さて、表題の本題。与野党伯仲の時に、第三党が「是々非々」としばしば標榜する。羽田派(小沢派)脱党に際して、自民党と野党連合が伯仲した時に、日本新党がこの言葉を使ったのは記憶に、、、新しくないか。まあ、結果として日本新党首班の細川内閣が成立したのは覚えていらっしゃるでしょう。今の公明党も使っていますけど。

 元祖は原敬です。

 つまり、大隈重信総理&与党同志会が、山県有朋元老率いる官僚閥と仲たがいし、結局は大隈が勇み足で自爆して、山縣閥の寺内正毅が首相になるのである。

 

 ちなみに「勇み足」とは、単独で大正天皇に、後継総理として加藤高明を推薦したのである。これで認められていたら、大正天皇が実権を行使したことになるだろう。現実には何の権限もない大隈の推薦は無視されて、山縣以下の元老が奏薦する寺内正毅が総理になるのだが。

 さらに脱線すると、「元老にだって権限は無い筈だ!」などと曰う方が学会にもいらっしゃるが、この教授たちは「憲法慣例」という言葉を御存知ないらしい。「文字で書かれているかいないかがすべて」などというのは、アメリカ法や日本国憲法特有の発想であって、そんなものは法律論としても偏った極論なのだが。

 

 閑話休題。話を整理すると、政府は寺内官僚閥、それまでの大隈重信を支持していた衆議院第一党の同志会は野党に回るのは確定的である。さて、衆議院を敵に回してしまう形勢である。政府は何をしたか。衆議院第二党であり、昨日までの政敵であった政友会に秋波を送るのである。

 それに対する原敬の答が「是々非々」。この時期の『原敬日記』刊本の副題にもなっている。

 寺内は「外交には挙国一致が必要だ」と衆議院に呼びかけ、「臨時外交調査会」なる意味不明な委員会を作る。同志会は参加を拒否するが、原の政友会と犬養毅率いる第三党の国民党は参加する。そして、総選挙で政友会は同志会に逆転して、第一党に返り咲くのである。

 原は閣内にこそ入らなかったが、この臨時外交調査会でやりたい放題やるのである。原敬と言えば駐仏公使(大使がいないので最高職)や外務事務次官を努めた高級官僚で、その道の専門家と思われている。誤りである。官僚として出世したからと言って、その道の専門家とは限らないのである。現に、日露戦争中の伊藤や山縣は、軍事外交の重要な会合には総理であり総裁の西園寺公望は呼んでも、原はまず呼ばないのである。井上馨などは直接の上司だっただけに、原の無知無能ぶりはイヤと言うほど知っているのである。

 政党政治の推進者である原の功績は大きい。しかし、彼が外交専門家であったとは言えない。はっきり言えば、しょせん現場も仕事もわからない特権官僚の限界である。

 「是々非々」とは、「自分が決めたいように決める」の宣言である。この、「大隈対山縣&寺内対原」の構図で得をしたのは誰だろうか。

                              (この項、ひとまず終わり)