「国民」とは誰か。

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 イェリネック先生の「国家」の定義を現代風に焼き直すと次のようになると考えている。

「領域の上に、ある価値観に基づく人間の集団が存在し、主権を有する政府によって統治されている存在。」

 (ひらたく言えば、土地の上に人が住んでいて、責任ある秩序があれば国家です。)

※領域=領土+領海+領空・・・領海は領土に近接し、領空は領土と領海の上空。

※人間集団=国家に属する人民を国民と言う。あまり美しくない定義だが。

※ある価値観=国柄(国体)。歴史・伝統・文化・宗教・言語など、国によって異なる。

※主権=あらゆる外国から独立し、国内では他に優越する存在を認めない権力。

⇒「我々は〜国民」であるという意識があれば良い。

⇒「〜人」という場合、国境を飛び越えてしまう場合があるので注意。

 では国民とは誰かと言うと、「国家に属する人間」という実も蓋もない定義が出来上がる。では民族との違いは?どう訳せばよいのか?との疑問が生じる。ただ帰化外国人(帰化人)を包含している点では、これはこれで優れた概念だが。

 一般に民族とは「一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体」を指す。これでは、英語のNationを指しているのか、Ethnic(group)を指しているのか、まったく区別がつかないのである。

 そこで、国民(多数民族)と民族(少数民族)に関して私の定義を。

「主権国家を有する意思と能力を兼ね備えた、一定の文化的特徴を基準とする排他的共同体」

訳例)国民・民族・多数民族(日本)=ナロード(旧ユーゴ)=nation

「主権国家を有する意思と能力の両方若しくはいずれかが欠けた、一定の文化的特徴を基準とする排他的共同体」

訳例)民族・少数民族(日本)=ナロードノスト(旧ユーゴ)=ethnic group

 「排他的」とは、特に悪い意味ではなく、「この人とは同じ人」「あの人と自分は違う」という意識の問題である。たとえば幕末では長州人と薩摩人はお互いによその「国」の人と思っていたが、朝鮮人や清国人と同様の外国人と思っていた訳ではない。「三国」と言えば、「日本・朝鮮・支那」のことであり、日本という共同体の中での「よそ」であって、意識として「日本人(国民)」を前提としているのである。この「朝鮮人や支那人とは違う」という意識が「排他的」の意味である。これは必ずしも国境の枠内におさまらないし、国境の内部で激しく露出する場合もある。

 チトーが建国したユーゴの場合、「ナロード」は六つに限定された。ユーゴ「国民」とは「ナロード」の上位概念であるが、他に該当する単語がないので、これを使用した。英語やドイツ語も同じである(本当は英語とドイツ語を比べるとさらに面白いのだが、複雑になりすぎるので今日は割愛。)。ユーゴ内に、ナロードノストはあまた存在したが、その中でもムスリム人は後に「ナロード」に昇格させてもらえた。

 では、「ナロード」と「ナロードノスト」を区別する要素は何か?現実における力関係だけである。そして力を持ちうる為には結束が不可欠であり、文化的な統合が極めて重要になり、敵を設定すると排他意識が凶暴化する。だから民族問題は深刻なのである。ついでに言うと、本来は「ナロードノスト」にすぎないものに「ナロード」としての自覚を促すウッドロー・ウィルソンというトラブルメーカーが居て、その後の各国の歴史で権利を認めざるを得なくなったりするのである。これが現代においても世界各地で「民族」紛争が絶えない理由である。

 では国民とは何か。「国民=ナロード+ナロードノスト+帰化人」である。

 人によって、nationやfolkを、ナロードの意味で使ったり、ナロードノストの意味で使うから、英語やドイツ語ではもはや定義不能になるほどややこしいのであるが、日本語の「国民」も、「多数民族」も、「ナロード」でありnationであり、folkなのである。

 日本人以外でこれを区別できる国民を私は知らない。誰か言語に詳しい人が居たら、歴史的事実付きで教えて欲しい。少なくとも、区別できるような国を知らない。例えば、所謂「国民国家(Nation State)」の典型とされるフランスにしても、パリと北仏と南仏など、元々はトルコとペルシャとアラブくらい違っていたのだし。それを「フランス人」として纏めるのは、前記三者を「ムスリム」と纏めるくらい無理があるのだが、二十世紀くらいまでに何とか無理やり統合したのである。「ナロード」=「国民」の図式にするために、「ナロードノスト」の意識を徹底的に破壊していくのがフランスの歴史であって、この為の殺戮など一七八九年からのフランス革命どころか、十一世紀くらいから散々やっているのである。でも、「ナロード(民族)」と区別できる「国民」に該当する単語があるのだろうか。私はフランス語は門外漢だが、岡田英弘先生などは「日本語以外には無い」と言い切っていらっしゃる。

 さて、「日本は単一民族国家である」と発言して、アイヌ語の抗議文を送りつけられて謝罪した愚かな総理大臣が居た。中曽根康弘と言うらしい。

 私ならこう答える。「日本は単一nation国家である。単一ethnic国家であるかどうかに関しては発言していない。」と。

 もちろん、この場合のNationが「国民」なのか「民族」なのか、「民族」だとしたら「ナロード」なのか「ナロードノスト」なのかは聞かれない限り説明しない。聞かれたら「アイヌ人(people)」に主権国家を持つ意思と能力があるのか。双方ともにあると証明できたら、アイヌ人はNationの訳語の民族として認める。ただし、国民国家であったとの事実には変わりがあるのか」と答える。

 帰化人が日本において、無視できない社会現象となっている時代は二回だけで、古代と現代だけである。誰でも知っている話だが、古代の帰化人は土着の日本人より大陸半島への排他性と日本への帰属意識が強かったのである。そうしなければ生きる道が無いのだから当たり前である。

 これでもかと譲歩をして、聖徳太子不在説までを認めても、奈良時代には「排他的共同体意識」は形成され、現在まで連続しているのである。その意識とは、「ナロード」「ナロードノスト」「帰化人」のすべての意識を包含した「国民」意識である。この意識こそが日本という国の重要な基層なのである。

 ここで問題。なぜ日本の学界の人達は「国民」国家を否定するのか。

解一)本当に何もわかっていない。流行か淫嗣邪教の信者のように唱える。・・・大多数。

解二)日本を滅ぼしたい。日本を日本でなくしたい。・・・少数だが、確信犯は極めて狡猾。

 今後への提案。民族問題を語る時は、何語を使うにしても、どの用法を使うにしても、上記定義の「国民」「多数民族」「少数民族」の概念は区別して欲しい。これはこの砦の皆さん以上に世界中の学界に求めたいのだが。