幕末を動かした武器は言葉

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 幕末は暗殺の嵐が吹き乱れた時代だと言われている。二本差しを腰にぶら下げている感覚は、現代の日本人にはわからないと思う。しかし、読書によって想像力を鍛えることができる。

 たとえば、会津藩では、武士は毎朝、切腹の作法を練習していたという。もし恥ずかしい行いをしたら、自ら命を絶つ覚悟をするためである。生きることを考えるとは、どのように死ぬかを自分で決めることである。これを死生観と言う。生命は永遠ではないのである。今日、何かの拍子に命を失うかもしれないのである。現代、「自分はどのように死ぬのだろう。死に場所はどこだろう」などと考えている若者はどれくらいいるのだろう。少なくとも「命は尊い」と教えるならば、「いつか死ぬからである。だから恥ずかしくない生き方を心得よ」と教えるべきであろう。これを昔の武士は、今の小学生の年齢から教え込まれていたのである。

 以上の話は、白虎隊の本を読めばどこにでも出てくる。

 さて、本題。幕末は暗殺の嵐の時代、と言われ、テロが世の中を動かしたかのように語られる。最後の十年弱(五年位?)はそう言ってもよいと思う。ただし、彼らは犯罪者である。取り締まる警察機構も、裁判機構も顕在である。「人を斬る」というのは当時にあっても、大変な覚悟がいった。それが当然である。

 ついでに、身分の低い浪人たちが、高位の公家や大名を刀で脅して動かした、というのも再考が必要であろう。彼らは用心棒を雇えるので、あまり効果がないのでは?また、公家社会の中で刀などを持ち出したら、かえって危険人物視されて反感をかうだけである。

 では当時の公家の中で最も活動的で説得力があったのは誰か。岩倉具視である。彼は中級公家の羽林家に属する。羽林とは「ものすごく多い」という意味である。ではなぜ彼の政治力がずば抜けていたのか。彼の言葉が硬直した公家社会を動かしたのである。

 志士たちにしてもそうである。刀だけなら、警察特殊部隊である新撰組やら見回り組の方が強いのである。現に多くの志士が捕縛最中の格闘で命を落としている(死刑廃止をしている欧州では、現在も普通の光景)。

 暗殺する覚悟、雄藩の軍事力も重要だが、幕末において言葉も重要な武器であった。現状を憂う危機感、未来を切り開く情熱、知恵と知識に裏付けられた構想、そして死生観に基づく勇気。

 現代人とどこが違うのか、考えてみてはどうだろうか。