高杉晋作の雄弁(後編)

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 これからのお話は衆人環視の下で行われた史実である。
 こんな話、フィクションだとあまりにも荒唐無稽すぎて書けない。というか、筋が通らなさすぎて、「なぜそういう展開になるの?」と一回でも思えば、理解できなくなるのである。
 私もこの話、合理的に説明ができない。事実をそのまま伝えるしかないのである。しかも如何に頭と心が捻じ曲がった、自称実証主義者の歴史学者や知識人気取りの歴史マニアすら細部以外否定できない事実である。

 あなたは3千人の敵と戦うには、何人集まれば決起しますか?

前回までのお話+α。
 長州藩は四国連合艦隊砲撃により領土割譲の危機に追い詰められた。そこで登場したのが高杉晋作である。圧力をかける大英帝国に対し、「今度やったら勝つ!」の一言で、交渉を終わらせた。(これには異説あり。今度英国の外交文書を調べときます)

 一方、長州藩は外患だけではなく、内憂も抱えていた。京都での政権抗争に破れ、あまつさえ御所に発砲してしまい、幕府と薩摩藩から逆賊呼ばわりされて征討を受けてしまう。
 この過程で、幕府との融和を図る俗論党が長州藩の実権を握り、高杉ら正義派は弾圧される。

 さて、

 亡命を余儀なくされた高杉は、仲間が次々と殺されていくのを見て、藩論が親幕府に傾いてくのを見て、帰国。自らの傘下にある奇兵隊など、そこらじゅうに俗論派打倒の決起を呼びかける。しかし、高杉が最も頼りにしており奇兵隊を預かっていた山縣狂介(有朋)は「無謀」だと反対する。高杉に同調したものは一人もいなかった。

 そこで高杉は元治元年十二月十四日(1865年1月11日)に決起する!と呼びかける。この日を選んだ理由は、どうやら赤穂浪士の討ち入りの日にしよう、くらいのつもりだったらしい。
 その時の台詞がすごい。

「誰もやらないなら、一人ででも立つ!」

 結局、決起は十五日の深夜になった。当然ながら狂人呼ばわりされている高杉についてくるものは一人もいない。「何とか一人でも多くの仲間に呼びかけます」と言った舎弟の伊藤俊輔(博文)とてあやしい。

 高杉は京都から亡命してきていた三条実美以下五人の公卿の前で決起を宣言する。
 丁度、大雪の後であり、満月を背景に馬の前足をたなびかせて、出陣していく。

「これから長州男児の肝っ玉をお見せいたしましょう!」

の一言を残して。

 そして明け方、伊藤俊輔が駆けつける。
「すみません、たった八十人しか集まりませんでした。。。」

高杉の返事は

「八十対三千!充分だ!」

 伊藤は大柄な男で構成される力士隊など、かき集められるだけかき集めてきたのである。
しかも、単に集会があるから集まれではないのである。
 今で言うと、
「市庁・県警本部・自衛隊駐屯地・県庁の順に攻略するぞ!」との呼びかけである。
 当たり前であるが、当時でも犯罪である。

 現代に置き換えて全く問題がない。こんなことをやればどうなるか、想像してみよう。

 しかし、何が起きたか。

高杉は
「とりあえず、武器と兵糧を寄越せ!お前らだってあいつらに本音では不満だろう!」
「俗論党にやらせておいて良いのか!お前らも加われ!」
「どうせ、軍艦は幕府に召し上げられる。だったら俺に貸せ!」
などなどと発砲する前に呼びかけると次々と応じるのである。

 そうする内に、200対1300くらいで戦闘が始まるのだが、これが何と勝ってしまうのである。
高杉が勝つと見て、一番日和見だった山縣までも参戦し、藩の実権を握る毛利敬親は高杉の勝利を認めるのである。

 ここで、高杉が決起しなければ長州藩など、歴史から消え去っていただろう。幕末にそんな藩などいくらでもある。徳川家を倒せる現実的な勢力など存在しなかったであろう。長州藩が第二次長州征伐で徳川家を撃退したから、薩摩は長州と手を組んだのである。

 高杉晋作のたった一人の決起がなければ、倒幕維新はありえなかったのである。

  たった一人の若者の覚悟が、明治維新をもたらしたのである。