日本国憲法の正統性(1)―無効論

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 竹田先生と連絡が繋がりました。相変わらずご多忙で大変そうでした。

「竹田研究会会員一同、全員気持ちは同じくし、ご同情申し上げております。ただ決してお一人ではありませんよ。皆で応援いたします」と御伝えいたしました。私が何の資格で代表しているのかはさておき、たまたま繋がったということで、会員の皆様はご容赦をお願いします。その他の竹田先生を応援してくださっている方々の気持ちも勝手に代弁させていただきました。かなり僭越ですが、こういう事は一番早く連絡が取れた誰かが最初に御伝えするべきだと思いますし。

 さて、表題は小林よしのり氏に限らず、むしろ保守派を自認される方々に誤解があり、それが「内ゲバ」の様相を呈することもあるので、憲法学の基礎理論として、緊急講座を致したいと思います。これにより、相手の主張を結論だけ皮相に抽出して批難するのではなく、内容や論理体系をも踏まえた批判による議論が行われることを期待します。

 日本国憲法の正統性に関して竹田先生は「改正憲法説」をとられており、「たとえ占領下であっても、欽定憲法である事実は重い」との主張です。これに対して批判するのは構わないのですが、その前に「国体政体可分論」「改正限界説」「憲法優位説」「貫史憲法」などの意味を理解した上で批判されている論者がいた記憶がありません。他にも重要な概念が多々あるのですが、全部を言い出すとそれこそ博士論文一本になってしまいますので、要旨のみで。

(ちなみに「貫史憲法」など、ネットて調べてみても出てきません。その他の用語に関しても同様に、少しばかり素人が調べたくらいでは理解どころか、用語の意味すら調査できない、体系的な学術用語であると理解してください。はっきり言って、本当の学問とは手抜きができない厳しい世界だと思ってください。前にも書いた記憶がありますけど、例の『正論』の対談を字面だけ読んで、竹田先生は護憲派で私が改憲派、とかいう認識しかできないならば、これからの話はまったく理解できないと思ってください。あえて厳しい、下手をすると上から目線の文体に思われるかもしれませんが、これは自分のやってきた仕事に対する矜持の問題ですので、申し訳ないですけど、理解できない相手にとやかく批評されることへの怒りのようなものです。少なくとも、相手の言っていることが理解できないからレッテル張りをするならば、された相手にも怒る権利はあるでしょう。ちなみに私は改憲派でも何でも良いのですが、竹田先生を占領秩序全肯定の護憲派とする粗雑な議論には、本気で怒っています。これは学者の良心の問題です。)

 この論題、ややもすれば中身を検証せずに結論だけで判断する傾向があるので恐いのです。といっても、玄人でなければ本当のところはついていけない難解な議論です。私も理解している範囲をできるだけわかりやすく解説しようと思いますが、私自身の能力不足もあるでしょうし、表現の問題としてこれ以上簡単にできないところもあるので、そこはご容赦ください。

 

 本題。日本国憲法はなぜ日本国の憲法として正統性があるのか。

 そもそも「正統性」には歴史的伝統を踏まえている、との意味がある。日本国憲法は主権国家の憲法でありながら、占領下において外国軍隊の主導により制定された、しかも日本の歴史的伝統から逸脱する内容が多すぎる、などの「正当性」の段階で疑義がある。国際法的にも国内法的にも瑕疵がある以上、日本国憲法は憲法として無効である。よって「正統性」などありえない。

 以上が日本国憲法無効論の概要である。この立場に立つ論者の筆頭は金森徳次郎憲法担当国務大臣である。金森博士は「日本国憲法は本来ならば無効」と述べられておられた。この「本来ならば」の解釈は、厳密に法解釈をすればの意味であろう。

 菅原裕弁護士は体系的にこれを纏められている。(ちなみにWikiでは南出喜久治弁護士と渡部昇一博士だけが紹介されているが、せめて井上孚麿先生や、少し立場は違うが小森義峯先生を紹介しないのは、研究整理として落第である。) なお、枢密院議長として日本国憲法審議を行った清水澄博士も同様のお立場であられたと思われる。

 占領軍の行為は、国際法的には、確立された慣習国際法を文言化したハーグ陸戦法規に完全に違反している。この違反行為は、全人類に対する挑戦であり、絶対に許されない。正当性そして正統性があるとするにはまず国際法的問題を解決しなければならない。

 本来ならば、フランスやオーストリーがナチスドイツ占領期の憲法以下の法体系の無効を宣言して憲法を復元するのが正しい法手続である。

 ちなみに本朝においても、王政復古の大号令とそれに伴う三職(摂政・関白・征夷大将軍)の廃止は、法体系の復元である。それまで現実に存在した江戸幕府の秩序を否定し、神武創業の精神に立ち返りつつ、現に存在する秩序を尊重するための措置である。これができるのは天皇陛下ただお一人である。これによりわが国においては、社会の秩序を全否定する意味での「革命」は現実にも法的にも起こりえない。

 国内法においても、改正の限界が帝国憲法に存在したか否かはさいておいても、やはり古来の日本における歴史的伝統に基づく秩序(これを貫史憲法と称する)に明らかに反している部分も存在するのである。その範囲をどこに求めるかは議論が分かれるが、明らかな不備を一つだけあげると、九条二項である。戦力不保持と交戦権放棄は主権国家の否定であり、いかなる国の最高法規としても認められる内容ではない。もちろん日本国においてでもそうである。

 ただ、以上のような憲法無効論にも問題が生じる。

 憲法が無効だったとして、では現在までそれを否定しなかったのはなぜか。むしろ憲法として現実には機能しているのではないのか。今頃になって過去に遡って憲法の無効を宣言して誰がその混乱を収拾できるのか。また、一度憲法として国民が認知した憲法を全否定するのは革命と同じであり、それは国体そのものをあやうくしかねない。

 このような諸点への答えは困難である。また、「改正憲法説」「承認(追認)説」からは有力な批判があるので、縷々紹介する。ちなみに「八月革命説」からは無力な反論があるが。

 

 かなり難解な内容だと思われるが、大前提は二つ。

一、完全な正解は存在しえない問題である。

二、そもそも正当性と正統性が問題にある憲法の時点で、日本国憲法は異常である。

 

 憲法無効論に対する私の立場は、清水博士・金森博士・菅原弁護士の論は有力であると考えています。ただし、「議会が憲法の無効を宣言すれば良い」「帝国憲法の何条に違反しているから」「(慣習国際法に基づかない)何とか条約、例えば大西洋憲章に違反しているから」などという粗雑な議論は否定します。