亡国前夜(9)―青木幹雄は神か悪魔か

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 華々しく散って来い!葬式は盛大にあげてやる!

 よくよく考えたら、すさまじく無責任な励ましである。平成十年自民党総裁選に際して、江藤隆美が梶山静六に出馬を促した際の台詞である。で、江藤さん何をしていたかと言うと、テレゴングをひたすら押しながらテレビ世論調査の「首相になって欲しい人ランキング」で梶山の順位をあげていたという。・・・本人も竹下に追い詰められて何をして良いかわからずにせめてもの思いで、、、と述べている。何もしないよりはマシか。ちなみに江藤さん、カストロ&チャベスとのスリーショット写真を回顧録に載せるようなお茶目な方である。これをやってフジモリはアメリカ(オルブライト)によって失脚させられたのだが。。。

 あと、1998年は平成十年です。すみません。などと軽い話ではじめますが、以下はひたすら異様な話ばかりです。当時、私がウォッチングしながら感じた異変を御伝えできればと思います。なぜそんなウォッチングをしていたかと言うと、まあ事情があったのです。その辺りの記録は将来は国会図書館の「憲政資料室」で公開できるようにします。本当は当時の独自取材が山のように入ってる記事ですけど、一応公開情報のみを証拠としています。この長ったらしい記事の最後まで読めば何となくわかるでしょうけどね。

 

 橋本内閣は参議院選挙にまさかの大敗北。総辞職に至った。後継を選ぶ自民党総裁選挙には、小渕恵三・小泉純一郎・梶山静六が名乗りをあげた。永田町の常識では、大本命は小渕、梶山は泡沫と思われていた。ところが。。。

 さて、この時の総裁選挙、すべてが異様だったのである。まず週刊誌には「梶山以下三人の代議士がアメリカ大使館に呼ばれた」とか平気で載っていたし。梶山出馬は、細かい立証は省くが、田中角栄の権力樹立以来優勢だった北京派に対するワシントン派の最初の反撃、と考えて良いだろう。ちなみにこの場合は、ウルトラ親中派のクリントン政権中枢とか、前身のOSSの段階で共産主義者に乗っ取られていたCIAの如き無能者組織ではなく、国務省&東京大使館の意向と考えるべきである。

 55年体制は、98年を境に変質する。98年までは、三木武夫と竹下登が関わらない限り、相手を抹殺するまでやらない八百長なのである。98年以降は、加藤紘一が迷い出ない限り、相手を抹殺するまでやる真剣勝負である。

 平成十年総裁選では、実質的に竹下派(その頃は小渕派を名乗っていた)の属領と化していた旧河本派以外のすべての派閥が分裂しているのである。数が多いほうから以下。

 小渕派・・・小渕恵三(竹下直参)対梶山静六(を含めて3人)

 三塚派・・・小泉純一郎(竹下に命令されて出馬)対亀井静香(派閥分裂)

 宮沢派・・・加藤紘一(前橋本内閣で主流派)対河野(この時のみ「愛国心」を絶叫)

旧渡辺派・・・山崎拓(前橋本内閣で主流派)対村上正邦&江藤隆美(タカ派で有名)

 結果、小渕の当選は予想通りだが、梶山は基礎が三票なのに大健闘で百二票の二位。小泉は自分の派閥すら固めきれずに最下位と政治生命の危機に追い詰められた。なぜ?今後の歴史家の課題であるとしか言いようがない。三十年後に米国が公文書を公開すると相当のことがわかろう。

 さて、しばらくは小渕はひたすら根回しだけで支持率を上げていく。小渕の悪口を書くと、どんな無名のジャーナリストのところにも小渕本人から電話が来るのである。ただ根回しでも参議院の劣勢は回復できない。公明党も連立を要求してくる。そこで、いきなり宗教政党と手を組むと反発が強烈なので(実際に自民支持層が相当離れた)、まず自由党と手を組み、ついで公明党も引き込んだ。この時点での小沢一郎自由党党首は、竹下の軍門に下った姿勢で、内部から自民分裂を策していたのは確かだろう。

 よく、「小沢との連立は竹下の影響力低下の証拠」「野中がNEC疑惑で竹下を脅して黙らせた」などとの解説を目にするが、嘘だろう。ならばなぜ竹下の葬式に財務事務次官が一人で駆けつけるのだ?確か島根まで行ってなかったか?本当に過去の人ならばそんな必要はあるまい。竹下の後継者の眼を気にしていたからの行動以外ありえまい。むしろ当時、野中がはしゃぎすぎて竹下に土下座させられる話が載っていたが、その方がまだ信憑性はあるか。この辺り、大宅壮一文庫に行く時間があればきっちり立証できるのだが。

 竹下の影響力低下の原因は明らかで、病気である。その結果、平成十一年十月五日、またもや異様な事態が発生する。青木幹雄官房長官の就任である。この速報を聞いた時、「永田町の権力中枢で何か異変が起きている」「とうとう竹下が裏の側近を表に出した」「青木は神か悪魔かのどちらかでしかない」と直感したものである。以後、内閣を青木が取り仕切るようになる。

 青木は学生時代から大学を中退してまで竹下の下に馳せ参じた側近中の側近であり、所謂「バッジをつけた秘書」である。彼の弟も竹下の秘書である。竹下派分裂騒動で、有能なメッセンジャーボーイを努め、小沢追い出しの最大殊勲者でありながら恨みを野中に向けさせていた。そしていきなり参議院からの官房長官登用である。こんあ経歴の人物が重要人物でない訳がない。

 そして小沢自由党党首が散々無理難題を吹っかけたあげく連立離脱をしたことで小渕首相が病気で倒れたことになる。しかし小渕が倒れた直後に普段は絶対に説明をしない小沢が事情は違うと言い訳する。その要旨は「自民・自由の同時解党による新党結成」だったそうである。小渕はそれを飲めずに苦しんだとのことである。

 小渕の「遺言」を青木が聞いたことになり、五人組が密室で次期森総裁を談合したことになる。今、世間に出ている情報だけでもこの一連の騒動をさりげなく動かしているのは青木であるとわかる。最大の証拠を挙げると、この五人組の談合なるもので「森さんで行きましょう」と宣言し、しかも続けて官房長官に留任しているのである。この過程で野中は追随している。

 竹下も小渕とほぼ同時期に他界する。権力の真空地帯が発生する。

 

 さて、当時考えていた「北朝鮮に拉致された中大生を奪還する条件」を本邦初公開。

一、大売国奴竹下が健在の内は、とにかく拉致問題の存在を日本中に広めるしかない。

二、竹下の側近でありながら実は面従腹背の実力者に、拉致問題の重要性を認識させる。

三、竹下死後の跡目争いに乗じて親中派を駆逐し、親米派政権を樹立する。

四、その時には、民主党の政策転換よりも共和党のしかも相当な親日政権の可能性が高い。

 つまり、●●が●●を担いで、●●や●●を総裁選で打倒するしかない、と考えていた訳です。ちなみに最初の●●が最も重要なのです。他の三つは入れ替え可能なので詮索自体に意味がありません。ついでに言っておくと、「村岡じゃねえ〜」が一時期の口癖。

 平成十年総裁選以降、親米派と親中派の対立と見ています。米国にも親中派がいるから困るのですが。永田町だけで永田町のことを決められない、それが日本現代政治の特徴です。