河合栄治郎の話

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 最近の健康法。『総図解 よくわかる日本の近現代史』を褒めて貰う。
 お二方からリクエストがあったので、河合栄治郎の話を。

 私が歴史上の偉人であり、弁論人としての先輩である河合を知ったのは大学四年生の時です。
 ちょうど、進学が決まった直後です。
 安保闘争直前の左翼演劇に「長い墓標の列」という作品があるのですが、
これが河合と弟子でありながら裏切った大河内一男(戦後、東大総長に出世)の葛藤を描いた秀作です。
 形式的な権威にしがみつく東大当局と権力に媚びて保身をはかる大河内、
 学者の良心と自由主義者としての信念を懸命に守りながらもどこか滑稽な河合、
 その両者をどこか覚めた目で見ている観客(つまり学生)の視点を、
戦時下の雰囲気を忠実に再現しながら描いています。
 権力の横暴ですべてをとりあげられながら、
「わしから勉強だけはとりあげないでくれぇ」と絶叫する描写は泣けます。
 もちろん、演劇ですので誇張もあり、かつ描かれていない面もあるので、私もその後の研究で補強はしているのですが、学者たるものどうあるべきかについては考えさせられます。
 人間はどこまでやれば勉強のしすぎで死ねるか?とか。
 私は母校の図書館で脚本を読んだだけなのですが、学者志望の学生は必読です。
 一日十八時間睡眠以外は勉強!の生活を三年間続けろ、とかは言いませんが。

 河合の負の面も含めての伝記としては、弟子の江上照彦『河合栄治郎教授』が基本書です。
 あと松井慎一郎『戦闘的自由主義者河合榮治郎』などは、「河合こそ吉野作造の後継者である」という私と同じ問題意識の著述です。

 吉野も河合も、左右の全体主義であるファシズムとコミュニズムの両方を敵に回して命懸けで戦った言論人です。
 吉野は事実上の一高東大弁論部の創設者であり、河合はその全盛期の部員です。
 思想史のコラムで吉野と河合を続けているのは、その彼らが訳のわからない言論空間の発生により抹殺されていく時代状況を描くためです。
 河合というと、「自由主義的社会主義的民主主義」とかを唱えていたので、「左翼?」とか思われるのですが、戦後の民社党の思想的源流です。というか、河合の弟子たちが民社党を作ったのです。自民党なんかよりはるかに右です。
 つまり今風に言うと、真正保守です。

「今までの歴史教科書って何だったのか」という重要な問いかけへの回答にもなるのですが、

一、国家にも政府にも批判的な勢力・・・本物の共産主義者、実は少数派。
二、国家に批判的で政府に従順な勢力・・・戦後の学界と官界、実は多数派。
三、国家と政府を区別無く弁護する勢力・・・戦後の保守論壇。時代が後になるほど増加。

に対して、

四、国家を愛するがゆえに、政府を批判する勢力・・・吉野や河合ら真の大正デモクラット。

がどんどん少数派になっていく過程が近代日本の思想状況です。

 河合は、統制経済を主唱した同僚の土方という教授と大喧嘩して東大を馘首になります。
 というか、それを口実に追放されたわけです。政府の無能な支那事変遂行を批判していたのでこれ幸いと河合を東大から追放したのが、戦艦大和の設計者である平賀譲総長なのですが、平賀の技術者としての貢献と総長としての力量はまったく別です。
 政府を批判した愛国者を追放し、社会的抹殺するのに加担する。
 これが大学や学者としての自殺でなくしてなんでしょうか。
 しかも大義名分が「喧嘩両成敗」という思考停止。
 昔、戦艦大和を作った平賀さんと対立した河合は左翼だ!とか言われて本気で切れたことがあるのですが、自由とは何かを考えないで形式的な官僚主義に走ることが保守なのでしょうか。

 あ、そうそう、河合の追放劇に関しては立花隆が『天皇と東大』で「何を今更」なことを書いてます。
 河合追放事件により、東大は大学ではなくなった、とか。
 ちなみに、本物のUniversityがどういうものかは、「緒方洪庵」のコラムをお読みください。あわせて小野先生の「江戸の知識人」も。
 帝国大学よりも(もちろん今の大学よりも)、私塾とか藩校の方がよほどUniversityです。

 無能官僚による全体主義と亡国共産主義者、実は根っこは同じです。
 自由主義者の敵であるという点で。

 私の最近の学術的な仕事は吉野作造こそ国家主義者(=健全な保守主義者)であるというものです。その隣接分野として河合も研究していた次第で、その成果の披露となりました。
 さらなるご感想お待ちしています。