宗教学者が百人いれば、宗教の定義は百通りある、とのことである。宗教とは何かを考えること自体が宗教(学)の使命でもある。
ちなみに、最高裁判決は「超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する信条と行為」と定義している。とにかく超越的存在を信じる行為の体系が宗教と言えよう。
もう十年位前になるか、とある学会で「宗教とは、religioつまり人と人との結びつき、が語源であるとは共通理解だと思われるが・・・云々」と質問したら、パネラーの魂に火をつけてしまったのか、大論争が始まったということがあった。
さて、民主党が作ろうとしている無宗教の国立墓地なるゲテモノに関して。人は死ねば物質にすぎない。その死んだ人を慰霊するということは、そこに物質以外の存在を信じているということである。物質以外の超自然的超人間的存在を信じるということは、それが既に一つの宗教なのではないか。いかに無宗教だと言い張っても。少なくとも最高裁の定義では立派な宗教である。政府が無宗教の国立墓地なるものを作るのなら、この判例をどう変更する気か?しないで無視すればどうなるか?その状態を文明国では憲法危機と呼ぶ。
宗教というとアヤシイ、などという若者は多い。それでいて正月には神社で手を合わせて現世利益をねだり、盆休みやクリスマスを満喫する。
確かに、本当にアヤシイ宗教団体は多い。特定の宗教団体に属していなければならないなどということはない。あるイスラム教国のように、飛行機に乗る際に「私は無宗教です」と申告した瞬間、動物といっしょに荷物置き場に回された、などというのも日本人の感覚からは行き過ぎと思われるだろう。しかし、深刻な宗教紛争を経験したことのない日本人にとっては(幸せなことに)わかりにくいが、宗教とは信じる価値観そのものなのである。むしろこのイスラム教国の行為はアヤシイ宗教団体などと違って真っ当だといえるのである。
比叡山延暦寺根本中堂の不滅の法灯の話は『正論』の七月号で述べた。実はそのときの朝のお勤めでお坊さんから講話を聞かせてもらったのだが、「特定の宗教に入りなさいとは言いません。しかし宗教の存在を否定する人は懸念します。なぜなら、宗教を信じるとはある価値観を信じることだからです。価値観のない人は動物と同じです」といったことをおっしゃっていた。
無宗教が宗教ではないとのたまう方々。つまり自分は「価値中立である」「不偏不党である」とでも言いたいのか。ものすごい上から目線である。要するに「自分の主張が正しい教えである」と述べているに過ぎないではないか。無宗教という価値観も一つの価値観・宗教であり、他の価値観・宗教と同じなのである、という謙虚さが微塵も感じられないのである。
自分の信じる価値観が世の中にある多様な価値観のうちの一つであると思わず、価値中立的な普遍の真理であるという確信。これこそが最も危険な宗教ではないか。
無宗教こそ最も公平な価値観、正しい教えだという幻想が存在するが、そんなことはありえない。自覚なき無宗教こそ最も危険な宗教である。