宗教はなぜ危険なのか。自分のことを宗教だと思っていないからである。
自分も世の中にあまた存在する宗教の中の一つである、他の宗教も尊重しなければならぬ(宗教的寛容)、などというのは近代思想であって、たいていは「我こそは正しい教えなり」などと信じているのである。宗教戦争とは、「正しい教え」どうしのぶつかりあいだから、やめられないのである。
「我々は宗教ではありません」とよく聞くが、これにはまったく逆の二つの意味がある。
一つは、自分だけが「正しい教え」だと思い上がっているわけではないので、そんなに危険視しないでください、という世俗社会との調和を訴える意味である。日本人ならば神道だろうが仏教だろうが「無宗教」であろうが、どのように認識していようと、この意味で「宗教ではない」=「無宗教」かつ「多宗教」であろう。
もう一つは、「自分の信じているのは正しい教えです。世の中で宗教などと呼ばれている間違った教えとは違います」という自分だけが正しいという一番排他的な意味である。この場合は宗教の形態をとるとは限らない。占いとか自己啓発セミナーとか何とか学とか、宗教の名前を冠さない場合も多い。あまつさえ「変な新興宗教にかかわってはいけませんよ」などとおせっかいを焼いてくれる場合もあるから、もはや手の施しようがない。
「無宗教」という言葉、日本人は穏健中立客観的な意味で使っている場合もあるが、本来の「無宗教」は本質的に危険であるし、「無宗教を装う宗教」というタチの悪い集団も存在しているのである。
「無宗教」の慰霊施設が靖国神社と違ってみんなが納得する、などと考えているとしたら、あまりにも基礎知識がなさすぎる。