政教分離とは。政治と宗教の分離ではなく、政府と教会(教団)の分離である。
日本国憲法の教科書にはやたらと国ごとの細かい分類がある。しかし、大事なことは、「特定教団に不利益を与えない」か、「特定教団に利益を与えない」か、の違いである。
サミット参加国では、フランスだけが後者で、あとはすべて前者である。日本国憲法の支離滅裂な条文と判例と学説においてすら基本的には守っている。
大前提。あらゆる国家に儀礼が必要である。
儀礼権は国家元首に属する。その儀礼権と言う大事だが面倒な行為を、米国のように実権を有する大統領がやるのか、英国や日本のように君主が引き受けるのかの違いだけである。(このあたりは、ウォルター・バジョット先生の『英国憲政論』の根幹でもある。)
さて、その儀礼が宗教性を否定するとどうなるか。フランスでは大統領就任式で参謀総長が大統領(予定者)に勲章を与える。ちなみに「世界初の無宗教国家宣言」をしたアルバニアでは、エンベル・ホジャへの個人崇拝が家庭生活に浸透した。
米国の場合だと、正副大統領は選挙で選ばれるが、聖書に手を置いて宣誓して、大統領に就任する。ケネディの後のジョンソンは飛行機の中であわてて宣誓式を行ったし、ニクソンの後のフォードなどは選挙で選ばれてすらいない。「聖書に手を置いて宣誓」とは、ある意味で選挙以上に重要な大統領就任の要件なのである。
ではこの「聖書に手を置いて宣誓」は政教分離違反なのか?「特定宗教に利益を与えない」を厳密に解釈すれば問題になろう。しかし、「特定宗教に不利益を与えない」の原則では問題ない。別に、ヒンズー教徒のアメリカ人がそれで不利益を蒙る訳ではない。
靖国神社に首相が参拝すれば?少なくとも他の宗教が不利益を蒙るわけではあるまい。実は、「愛媛玉ぐし訴訟」以外のすべての判例がそう認めているし。(原告や学説では「首相の参拝で靖国神社のH.P.のアクセス数が増えた。心が傷ついた」などと本気で主張するものもいるが、さすがに裁判所では相手にされていない)
なお、目的効果基準を打ち出した、津地鎮祭判決、名判決と言われ、結論自体はまったく問題がないのだが、論理構成には不満だらけである。もちろん、目的と効果のどちらに比重をおくかにこだわる学会の傾向にも不満である。大事なのは「まじめな社会生活を送っている宗教団体に不利益を与えないこと」だと思う。