金解禁と井上準之助の評価―専門家すら騙した城山三郎の嘘―

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 今回は城山三郎の最も悪質な嘘について。色々と難しい話になるかもしれないが、「戦前の日本人は何に耐え、何には我慢できなかったのか」について謎解きをしていくつもりでお付き合いを。

 大正期以来の、第一次大戦後の戦後不況、関東大震災後の震災不況、昭和初期の金融恐慌、そして昭和四年以降の世界恐慌で、日本の社会不安は頂点に達した。今が百年に一度の不況と言われるが、敗戦直後とか、この昭和恐慌の時代に比べれば、まだマシである。この当時は帝国大学を出ても就職がない時代だったので。ただし、今ここで国家の舵取りを誤れば、昭和恐慌の後に満洲事変・支那事変・大東亜戦争と慢性的戦時体制になったように、日本が亡国の道へと突き進むのではないか、との不安は大きい。少なくとも、今の慢性不況や格差社会は今なら間に合うとは思う。しかし、今すぐ対処しはじめないと、取り返しがつかないことになるとは思う。

 その点で、昭和恐慌とは何だったのか、という疑問への関心はつきない。また、この時の経済政策を担当した井上準之助蔵相(濱口・若槻両民政党内閣で約二年二ヶ月)の評価も人から色々聞かれるのである。昭和恐慌については優れた研究として、以下をはじめ若田部昌澄先生の御著書を最も参考にした。

 若田部昌澄『昭和恐慌をめぐる経済政策と政策思想』( 内閣府経済社会総合研究所、二〇〇三年)

 ただ御著書を読み進めていて気付いたのだが、井上準之助を評価するに当って、批判者すら、重大な事実関係において城山三郎に騙されているのである。若田部先生も途中でそれにお気付きになられたふしがある。

 まずは、誰もが共有できるであろう事実の確認である。

一、井上準之助は、日本銀行時代、まったく官僚らしからぬ仕事ぶりであった。そのような日銀時代の井上に目をかけ、引き揚げたのが高橋是清であり、やがて財界人として井上は高橋是清の第一の側近と自他共に認める地位に上がる。

ニ、井上はあらゆる仕事において信念の人であり、日銀時代も大蔵大臣時代も実際に強力な指導力を発揮した。相当な自身屋であり、無理な仕事も自分ならやり切れると言う態度が目に付いた。確かに横紙破りでも押し通していたし、種々の制約から不可能と思われるような仕事もしばしばやり遂げていた。特に当該期では、満洲事変の収拾に自信を失った宮中側近達が憲政の常道の放棄を考え始めた時に一人敢然とその維持の必要性を力説し、全員に感銘を与え、西園寺元老の信頼を獲得した。

三、濱口内閣の蔵相を努める直前まで金解禁政策には反対を表明していた。財界人として高橋元政友会総裁の側近であり、田中義一政友会内閣から外相就任を要請されたほどであり、民政党内閣の蔵相就任は誰もが驚愕した。少なくとも濱口雄幸との関係よりは深かった。

四、金解禁とは、十年間歴代内閣ができなかった、金輸出解禁政策のことであり、十年前の交換レート(旧平価)であれば民政党少数党内閣が政令一本で実行できるが、昭和四年現在(実際には五年に決行)の新平価で行おうとすれば、議会での法改正が必要があり、紛糾が予想された。よって、旧平価解禁を選択した。

五、濱口も井上も金解禁直後の不況は予想していた。しかしそれは日本の企業体質を強めるためには必要な事態であると認識していた。財政政策も付随するように引き締め政策をとった。

六、現実の金解禁は折からの世界不況に直面し、後に「暴風雨の前に雨戸を開けたようなもの」と評されたように、金融のみならず日本経済のあらゆる面に打撃を与え、井上の在任中は遂に回復することはなかった。東北地方では娘の身売りなどが相次ぐ、悲惨な境遇となった。

七、濱口と井上が推進したデフレ下のデフレ政策や金本位制の復帰は、今日においては完全な失敗であると認められている。実は城山三郎すら、この政策の誤りは認めて居る。ただし、当時においては、旧平価解禁の危険性を明確にしていたのは石橋湛山ら四人組と言われた極少数であり、井上の後を受けて金解禁を停止して金本位制から離脱した高橋是清すら本当のところはよくわかっていなかった。

八、井上がなぜ濱口の要請を受けて蔵相に就任し、しかも民政党に入党し、金解禁政策を推進したのか、その動機を説明できる一次史料に基づく議論はない。というのは、井上準之助関係史料は東京大学法制資料センターにあるのだが、ここ事実上非公開に近いような閲覧状況なので。それ以外は、たぶん全部見たがよくわからない。まあ、密室で話し合われたことなので。

九、民政党に入党した井上は党内の政争に勝利し、わずか二年で若槻総理の次の総裁候補の地位に至る。つまり総理大臣候補の資格を得た。

 一つの項目に内容を詰め込みすぎたが、話の展開上ご容赦を。

 さて、城山三郎が流した最大のデマ。

「井上準之助は、その生涯において金解禁政策論者であった」

『男子の本懐』には牽強付会な史料引用の数々で、井上がさもその生涯を通じて金解禁論者であったと繰り返し強調される。城山自身が紹介している「三」の事実とどう整合するのか不明だが。

 結論から言えば、「井上は間違った政策とわかっていても自分ならやり切れるとの過剰な自信で引き受けて、ものの見事に失敗した」が適切な評価ではなかろうか。

 根拠は、「一」「ニ」「三」である。「五」は慢心と経済見通しの甘さ、と評しても良い。「四」はそれに、党利党略、の面も加味して評価してよかろう。「六」は本質的議論に争いはなかろう。「七」は予見可能性=どこまで予測できたか、以外は議論にならないと思う。「九」を根拠に、政権欲に目がくらんで志操を曲げた、との評価も成立しないではない。

 とにもかくにも、強力な指導者が間違った政策を推進した悲劇なのは間違いない。しかもつい最近まで間違った政策であると認識していたのに、自分がそれを推進する要職に就くと絶対曲げられない信念と化していく怖さである。

 石橋湛山らの卓見は今日から見れば驚異的である。しかし、民政党政権を説得できなかった。

 高橋是清は大蔵大臣として「不況乗り切りの達人」であったが、政党政治家としては非力であり、総理大臣は務まらなかった。

 井上準之助は敗戦までの昭和の二十年間で最も指導力を発揮した政治家である。しかし、その政策は間違っていた。

 

 民主制は、英雄がいなくても国家が運営できるような制度である。戦前の日本人は、突出した英雄がいなくとも、何とか生きていこうと奮闘していたのである。それは立場の総意に関係がなかった。国民は、今よりもひどい不況の中でも耐えたのである。

日本人は貧乏には耐えたのである!

 では何に我慢ができなかったのか。それは満洲事変をみれば明らかである。対外政策の失敗である。戦前の日本人は不況のはけ口を海外侵略に求めた、などとされてはたまらないのである。現に高橋財政で不況は回復に向かっていたのに、支那事変に日本を追いやった特定の人たちがいるのである。

 そして民意の怒りはその人たちに向かわずに議会政治に向いてしまったのである。井上も高橋も暗殺され、石橋は不遇であった。

 政治家としての井上や高橋に全くの失政がなかった訳ではなく、その点での批判はやむを得まい。しかし、彼らが日本を敗戦の絶望に突き落とした主犯でないのは明らかであろう。少なくとも、より直接的な責任がありながらまったく免罪されているかの如き人たちがいる。

 なぜか城山が美化する外務省の特定の官僚である。この話はまた別に。