伊藤対山縣(4)―日本を決めた明治四十年?―

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 隈板内閣は組閣前から大混乱していた。勝手に組閣本部があちこちに乱立するのに、総裁が自分一人で人事を決めていると思い込んでいるとか、総裁に匹敵する実力者として板垣退助が居るけど、実は単なる傀儡とか、現在の政局の話ではありませんので、念の為。それにしても、似たようなことをやっているが。

※鳩山由紀夫=大隈重信、板垣退助=小沢一郎、輿石東(日教組&自治労)=星亨、とか見立てることはできるが、単純化はよろしくない。たとえば、この時の板垣は本当に何にも実権がないどころか、仕事も無いので。歴史を見る時は、「似ている」と「同じ」の違いに注意されたし。

 そんな混乱の中、伊藤博文は清国に居た。丁度、清国は日本の明治維新にならって改革を押し進めようとしていた。その指導者である康有為が伊藤に一言。「日本のような小さな島国ではなくて、我が国のような大国で宰相をやる気はないか?」と。伊藤、答えて曰く「おたくの国は日清戦争に負けたでしょう。その大国主義が抜けない限り、維新はできないですな。」と。

 伊藤の予言通り、康有為の変法は、西太后ら守旧派に百日で潰された。これを百日変法と言う。清朝では林則徐以来の真人間である康有為にしてこれである。中華思想の根は深い。

 さて、大隈内閣が自滅して、山縣が内閣を組織した。憲政党の内、板垣系を切り崩して与党としたのである。板垣は傀儡であって、星亨(あだ名は、おしとおる)が実権を握っていた。山縣は、星系を与党として安定した政権運営を行う。

 ちなみに山縣は政党や政党政治を忌避していたが、実は元老の中で最も辛抱強く政党に対応しているのである。低姿勢であり、間違っても解散とか自分からの提携(連立)解消の申し出などはしないのである。予算と法案を通す為なら、ひたすら頭を下げ続ける現実政治家なのである。伊藤と違って絶対にキレないのである。

 さて、着実に軍や官僚機構への政党政治からの防波堤を築く山縣を横目に、伊藤は悲願の政党結成に奔走し、とうとう政友会を結成する。党派的印象がある「党」を避けて「会」とした。伊藤は部下の官僚を集めて政権担当能力を示したのは良いが、山縣の与党の憲政党(星一派)が解党して政友会に参じたのである。星としては、山縣と提携しても利益がないと判断してのことなのだが。これで山縣は伊藤に政権を譲る。

 伊藤は元老としての威厳もあり、問題の衆議院の支持も得たはずであった。ところが予算をめぐり貴族院が抵抗する。これは宮中を通じた工作で抑えたが、今度は政友会内が抑えられない。伊藤は政権を投げ出して、政友会総裁も西園寺公望に譲ってしまう。

 政権は山縣の子分の桂太郎に移った。官僚機構を抑える桂と、衆議院を抑える西園寺は、以後十年間、交互に政権を担当する。日本の運命を決める重大事がこの期間に集中しているのだが、日露戦争前後の安全保障上の危機に対応するには、安定政権が必要だったのは間違いない。大隈内閣は、日清戦争が終わり、北清事変直前のギリギリのタイミングだから許容できたのである。

 「政争は水際まで」を地で行ったのがこの時代であろう。伊藤も山縣も大事なのはロシアの脅威を取り除くことであって、その点では協力し合っているのである。

 さて、問題は日露戦勝後の明治四十年である。この年は、短く見積もって十年、長く見れば現在に至るまで影響のある事件が立て続けに発生しているのである。

一、四国協商=日英同盟と露仏同盟が協商。日露戦争の勝利を条約化・同盟体制化。英仏露三国の関心がバルカン半島に向いたことで、東アジアは日本の独壇場となる。少なくとも十年間は何も考えなくても安全が保障される体制に。ただし本当に何も考えなかったので、十年後のロシア革命で大変な目にあった。

二、帝国国防方針制定=陸軍はロシアを、海軍は米国を仮想敵に想定。真面目に戦争の準備を考えるのではなく、予算獲得の作文として、「仮想敵」などと声高に叫ばれるようになる。昭和十六年の対米戦が現実味を増した時、海軍が「米国相手の戦争なんてできません」と言えなかったのは、この時以来、膨大な予算をもらっていたから。大正期には、予算をめぐって内閣がいくつも潰れているし。東条英機は首相になって初めて、海軍がまともに対米戦の準備をしていないことをわかり愕然。陸相時代は「海軍が対米戦をやるなら大陸から撤兵しなくて良い」などと省益丸出しの考えであったが、現実を知って対米和平にまじめに取り組む。時既に遅すぎたが。

三、「公式令」と「軍令ノ件」を制定。=前者は伊藤が推進した、行政一元化の規則。後者は山縣が大井成元に推進させた、陸海軍省の独立性を規定した「軍令」。「軍令第一号 軍令ノ件」で「軍令」という法形式を規定すると言う、米国判例法並みの無茶を、結局山縣が押し通した。陸海軍大臣の帷幄上奏権が認められて、昭和期には出鱈目な運用がなされたのも事実。まあ、そんな単純な話ではないのだが。大事な点は、初めて山縣の権力が伊藤の威厳に勝った事です。結局伊藤は初代韓国統監になる。これを左遷と見る向きもあるが、どうなのだろうか。少なくとも、栄誉は保たせているし。

四、日本のアーカイブが遅れる。=アーカイブとは、実は歴史学者としての私の一番の専門である。公式令とは文書規則である。つまり、政策決定過程を残すということである。文書行政の問題、次から次へと起きている。もはや忘れられかけている年金やイージス艦から、最近の「核持込み」問題まで。そう言えば、薬害エイズ問題でも問題になったが、遠い歴史のようである。アーカイブとかアーキビストの定訳がない段階で、この点で日本は後進国であると断定できる。

 歴史を学ぶとは、現在の自分の立ち位置を知ることである。

 ちなみに、明治天皇は終生、山縣よりも伊藤に信を置かれたらしい。

 最初は、高杉晋作の功山寺決起から説き起こそうとしたが、さすがに分量が多くなりすぎて大変だったので削った。

 功山寺決起に最初に駆けつけたのが伊藤で、最後にやってきたのが山縣である。

                                 (ひとまず筆を置く)