寺内対原(3)ー真の勝者は原ー

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 教科書では、巨大な山縣閥の中枢に位置する寺内正毅陸軍閥の前に、国民に選ばれた衆議院は弱く、政友会の西園寺内閣は総辞職に追い込まれた、とされる。

 ではその後何が起きたか?東京中で連日のように大衆運動が発生したのである。これに恐怖したのは誰か。山県有朋である。この時期の大衆は怒ると行動するのである。まだ日露戦争の講和条約に不満が小村外相の家などを焼き討ちし、東京に行政戒厳がしかれた日比谷事件の記憶が生々しい頃である。議会政治は行われていないが、民意は強く存在するのである。

 さて、そもそも内閣総辞職でも余力を残して政争の一環として行う場合がある。陸軍の養蚕要求を蹴る形で西園寺が総辞職してしまえば、国民の怨嗟を一身に受けるのは山縣と寺内である。危険を感じた山縣らは一旦引き、予算争奪で対抗する海軍は政友会の原に同調した。原は山縣を脅迫する。「このままだと革命にでもなりかねませんが良いですか。」と。国民党の犬養はもちろん、自党の非主流派の尾崎とすら組む気がないのに、さも「私が彼らを抑えて進ぜよう」とばかりの態度である。元老会議でも誰も首相の引き受けてがいない。ただでさえ衆議院との対決は至難だが、今回は民衆運動までついてくる。

 これに立ち向かったのが桂太郎である。山縣は力をつけすぎた桂よりも若い寺内を重用しようと、桂を内大臣兼侍従長として宮中に封じ込めた。今回の政変は政界復帰を目論む桂にとって最後の機会である。一説には二十万人の大衆が街頭を埋め尽くしたと言われる第一次護憲運動を前に内閣の引き受け手はない状況である。桂は政友会に対抗できる新党結成を目論み、組閣した。

 しかし桂の行動はすべて裏目に出る。そもそも桂の宮中入りが山縣閥の宮中支配と受け取られ、山縣と桂の確執は世間に伝わっていない。桂はことあるごとに前内大臣としての影響力を利用して勅命を乱発したが、これは天皇の政治利用と批判された。新党結成の呼びかけに第二党である国民党の過半数が応じたが、これは醜い多数派工作としか映らなかった。

 結果、桂は総辞職の道を選ばざるを得なくなる。この時に桂に引導を渡したのが、海軍最長老の山本権兵衛である。山本は原に言われて桂に辞職勧告に行っているのである。最終的に桂は大岡育造衆議院議長の勧告で退陣を表明する形だが、これは最後のせめてもの抵抗である。しかも大岡は桂の無念を慮って「これは衆議院議長としてではなく、同郷の長州人としての勧告である」と断っている。失意の桂は直後に死亡する。既に癌を患っていたとも言われる。ついでに桂の葬式には多数の一般参列者が会った。この人たちの中には護憲運動で桂を攻撃した人たちも居たと言われる。

 桂の次の内閣は山本権兵衛内閣であるが、すべて原が同意した大臣で構成された。外相は原の後輩の牧野伸顕、海相は同郷岩手県出身の斎藤実である。木越陸相も内閣に殉じている。その他の大臣は政友会の党員か、後に入党した者である。

 原が第一次護憲運動を利用して山縣を脅し、山本を首相に祭り上げたのが大正政変であった。山本の海軍は強者の原に支えられ、山縣や桂新党は沈黙した。

 

 ところで、憲政の神様と称される尾崎行雄や犬養毅が中心人物として出てこないとの疑問に関して。原自身が「恐るべきは(反対党の)犬養ではなく桂新党」と日記に記しています。描くべき人物の優先度は明らかでしょう。