定義に関して

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 「定義」という言葉に関しても私は二つの用法を使い分けている。ついでに言うと「定義」よ「」で括っているが、これは辞書編纂者のように世の中に溢れている「定義という言葉の意味を体系化してあきらかにしようというつもりではなく、この場での限定された用法ですよ」という断りである。学問の世界にはこういう不文律があり、その不文律を知り身につけることは学問的訓練でもある。

 言葉は、辞書を見てもわかる通り、たいてい二つ以上の意味が載っている。特に日本語はそうである。だから誤解があってはならない重大な言葉に関しては、あえて辞書に載っている範囲よりも狭めて、より厳密に「定義」をする訳である。さもなくば、「辞は達するのみ」にすらならないからである。

 さて、二つの用法とはどういうことか。

 その用語を「定義」することが、結論的な意味を持つ場合の定義である。小室直樹博士が「定義は最後にする」などと昔はよく言っていたように思うが、この場合の「定義」とは「結論」と同義である。

 もう一つ、その言葉の理解が曖昧であれば展開される議論に誤解が生じてしまうので、辞書的な意味から限定する場合の「定義」である。この場合は議論を展開する最初にその言葉の定義を明らかにしなければならない。

 これは本当にあった話でが、とあるシンポジウムで、「天皇に戦争責任があるか」という議題で、一方が「昭和天皇には開戦責任はない」という歴史の話をしていて、もう一方が「今上天皇には今でもアジア諸国に謝罪をする責任がある」と現在の政策の話をしているという、おぞましい光景があった。「天皇」「戦争」「責任」に関しては討論する全員がその定義を共有していなければならないのは自明である

 私は論文を書く時は、言葉を「定義」する責任とともに権利(先定義権)を意識している。よほど不当な定義をしない限り、提起者の「定義」では争わないのが不文律でもあるのだが。

 よほど不当なの例としてよくあげられるのが、南京大虐殺論争の「大」「虐殺」の定義である。何人以上からが「大」かを数で定義しない以上「数は問題ではない」と言えないはずなのでまずこれが問題になる。そもそも「大虐殺」という表現が主観的なので、せめて「南京事件」という論者はまだ少しは良心的だが。

 しかし「虐殺」は国際法で定義されている概念である。しかも複数の単語があり、意味も全部違う。ところがそのどれにも当てはまらない「むごたらしく人が殺される行為」などと言われては、では戦争被害者は皆むごたらしく殺されたことになるのではないか、と言わざるをえない。少なくとも学問の世界の議論とは言えない。

 自分の思うところを如何に他者に伝えるか、は実に難しい行為です。