自民党の知恵―もしも職場が嫌っていた人だらけになったら?―

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 毎回、「結党以来の危機」をむかえ、本当に危機が拡大していき、今回とうとう野党になってしまった自由民主党。自民党政治家がどうやって危機を乗り越えてきたか、ちょっと困難があるとやる気を無くしてしまう現代日本人には教訓だらけかもしれない。

 自由民主党は、昭和三十年(1955年)に鳩山一郎率いる日本民主党と緒方竹虎率いる自由党が合併してできた政党である。それまでの政界は、二つの保守政党が社会党と手を組んで相手を打倒するという、凄惨な状態が続いたので、それをやめる目的があったのである。この時の社会党は、自由党内閣への不信任案に同調しながら、議長選挙では自由党に投票するという、やりたい放題だったのである。

 自由民主党は常に衆議院の51%以上の議席を占めるので万年与党、日本社会党は常に衆議院(参議院でも良いが)の33%以上の議席を占めるので憲法改正発議を阻止できる。これを「55年体制」と言う。ちなみに、升味準之輔という偉い政治学の先生が最初に名付けた時は「1955年の体制」である。

 さて、十年間激しく争ってきた両党、交渉は困難を極めた。そこで長年の政敵であった、民主党の三木武吉と自由党の大野伴睦が手を結び、合同を進める。

 民主党内で最後まで反対していたのが三木武夫である。曰く「あんな吉田茂の残党が居る、官僚臭い奴らと手を組めるか!絶対イヤだ!」と。

 自由党内で最後まで反対していたのが池田勇人である。曰く「あんな吉田茂に徹底的に抵抗していたような分からず屋と手を組めるか!絶対イヤだ!」と。

 三木武吉はこのような声を抑えて、流れを作っていく。民主党、自由党双方の反対派も大勢に従う。吉田茂や佐藤栄作は最後まで入党しなかったが。

 そして保守合同。自由民主党の成立である。ちなみに名前を、自民党にするか、民自党にするかは、お互いに譲り合ったらしい。

 自民党内では、鳩山、三木武吉、緒方、大野の四人が総裁代行委員となり、緒方の急死後は鳩山が初代総裁に。次期総裁は彼ら主流派が押す岸信介幹事長に違いないと思われていた。

 さあ、そこで非主流派となった池田勇人と三木武夫はどうしたのか?手を組んだのである!そして石橋湛山を担いで、第一回自民党総裁選挙で岸信介を倒すのである。ついでに岸政権になってからも、池田と三木は提携を続けるのである。

 自民党政治、良くも悪くもたくましいなあ。ちなみに、この手の話、十冊くらい本にできるくらいあるのだが、最近だと秘話になるらしい。経営者の方からは面白がられています。示唆に富む話が多いですね。

 教訓。昨日の敵は今日の友。いつ味方になるかわからないので、悪口を言う時も気をつけよう。ただし本気で言い合っていると、意外と後で恨みに残らないもの。