突然、斎藤代議士の演説を紹介したくなりました。
斎藤隆夫ですよ。斉藤進ではないですよ。
教科書に出てくる、
「昭和十五年二月二日 第七十五議会における斎藤隆夫演説 支那事変処理に関する質問演説」
いわゆる「反軍演説」。
その議事録削除された部分から抜粋。
現実に即せざるところの国策は真の国策にあらずして、一種の空想であります。
宗教家は申すに及ばず、各国の政治家らも口を開けば世界の平和を唱える。また平和論の前には何人といえども真正面からして反対は出来ないのであります。しかしながら世界の平和などが実際得られるものであるか、これはなかなか難しいことであります。
世界の歴史は全く戦争の歴史である。
現在世界の歴史から、戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。
そうしてーたび戦争が起こりましたならば、もはや問題は正邪曲直の争いではない。
是非善悪の争いではない。徹頭徹尾力の争いであります。強弱の争いである。
強者が弱者を征服する、これが戦争である。正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味でない。
つまり力の伴わざるところの正義は弾丸なき大砲と同じことである。
羊の正義論は狼の前には三文の値打もない。
かくのごとき事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない。
正邪曲直の競争でもない。徹頭徹尾力の競争である。(拍手)
世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります。
我々は偽善を排斥する。あくまで偽善を排斥してもって国家競争の真髄を掴まねばならぬ。
国家競争の真髄は何であるか。
曰く、生存競争である。優勝劣敗である。適者生存である。適者即ち強者の生存であります。
強者が興って弱者が亡びる。過去数千年の歴史はそれである。
未来永遠の歴史もまたそれでなくてはならないのであります。(拍手)
この歴史上の事実を基礎として、我々が国家競争に向うに当りまして、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ。
自国の力を養成し、自国の力を強化する、これより他に国家の向うべき途はないのであります。(拍手)
かの欧米のキリスト教国、これをご覧なさい。
彼らは内にあっては十字架の前に頭を下げておりますけれども、ひとたび国際問題に直面致しますと、キリストの信条も慈善博愛も一切蹴散らかしてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする。
これが即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります。
この現実を無視して、
ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、
曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、
かくのごとき雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、
国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことは出来ない。
以上、一言でまとめれば
「まじめに戦争やれ!」
です。斎藤代議士、リアルピリティクスの信奉者でしたから、外交で利益を確保できないで、
お役所仕事の都合で国策をもてあそぶのが許せなかったらしい。
聞いてた、畑陸相は「上手いこと言う」と関心。←そらそうだ。
鈴木貞一と武藤章という日本陸軍の二大黒幕は、「斎藤代議士ならあれくらい言うだろう」と関心。
ところが、議長の小山と言うバカ代議士が「聖戦を冒涜するな」などとどこかのブロガーのようなたわごとを言い出し、社会主義者の連中が「除名しろ」と騒ぎ出して、斎藤代議士は議員を強制的に辞めさせられて。愚かな歴史だ。
で、何でこの演説を急に紹介したくなったかの白眉が以下。
国民に向って精神運動をやる。国民に向って緊張せよ、忍耐せよと迫る。
国民は緊張するに相違ない。忍耐するに相違ない。
しかしながら国民に向って犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。(拍手)
これと同時に政府自身においても真剣になり、真面目になって、
もって国事に当らねばならぬのではありませぬか。(「ヒヤヒヤ」拍手)
しかるに歴代の政府は何をなしたか。事変以来歴代の政府は何をなしたか。
「事変」を現代に置き換えると何になるだろう。。。