SC様
12月3日のレスでの卓見、ありがとうございます。
ただ一点、細かいですが重要な点で誤解があるようですので補足しておきます。
主権国家には、その政治的効果としてやるべきかはともかく、法律的には条約を破る自由もあるのではないか、とのご意見に関して。
表題にもしましたが、結論から言えば、究極的にはありうると思います。望ましくはないですが。国際社会が国家を守ってくれる訳ではなく、結局は自分の手で守らねばならない訳で、主権とはその為の力ですから。それへの制裁手続として「戦争」という規定もあります。国際法は明らかに主権国家が条約を破る事態を想定して作られています。しかも相手が破った場合は即座に無効になり、守らなくても良い訳ですから。条約などその程度の存在ですから、主権国家のあり方を規定する憲法が劣位にあるなど不合理極まりない訳です。条約を遵守する手続を、主権国家の責任において憲法により定めれば良いだけの話です。
以上の理由で、確かに憲法は単なる条約に優位します。
しかし本題です。確立された慣習国際法は破ることができないから慣習国際法なのであって、憲法でもって破ることが可能かということです。
有名な例ですが、最も確立された国際法として、「戦時と平時がある」「戦時には、味方と敵と中立がある」「戦時では戦闘員と非戦闘員が区別されなければならない」があります。国連憲章は言葉を乱し、実態を乱しはしていますが、否定はできていません。つまり破りきれていのないです。「戦争」という言葉を無くして全部「紛争」にしたように、平時と戦時の区別がだらしなくなっただけで、平時だけになったわけではないように。
グロチウスが強調している点ですが、国際法の「法」とは「法律」である以上に「法則」です。一国の憲法によって法則を変えうるか否やは疑問です。かたや主権とは何者にも拘束されない絶対的な権力のことです。そのような主権が複数存在している国際社会においては、確立された国際法と憲法は等位の関係にあると考えます。だから、主権国家は軍事力と経済力と文化力をたくわえて、その主権国家としての地位を守る不断の努力をしなければならないのです。まさに法諺に言う「権利の上に眠るものは保護されない」でしょう。
たいていの確立された慣習国際法は、一九〇七年ハーグ・一九二九年&四九年ジュネーブ、ウィーン条約などによって成文法化されています。単なる条約ではありません。
改正憲法論の問題点は、占領軍の明確な国際法違反という瑕疵を誰がどのように正当化できるのか、という問題点があります。天皇ならば可能では、という点に関しては、SCさんの議論はかなり有効だと思います。改正憲法説に立つならば、将来の憲法改正の際の上諭と前文は相当に気を使った表現でなければならないでしょう。現時点での実務手続とそれを正当化せざるを得ない学説においては相当の瑕疵があると思います。
そこで次回予告ですが、改正憲法論の変更版として、承認説(追認説)があります。ただし、先に言っておきますと、やはりこれにも問題があります。