昨日は学会発表でした

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 彼が傲然として我を眼下に見下したのは燦然たる文物制度を以てである。支那に使するものが如何に彼の剛〔傲〕岸に憤慨したかは、明らかに歴史の我々に教ふる所である。推古天皇が日出る所の天子日没する所の天子に書を送ると書いたのも、畢竟対等の地位を主張すると云ふ一種の敵愾心から起つたものと云はれて居る。

 

 昨日は、関西憲法研究会で発表でした。演題は、

「青年」吉野作造の議会政治観

です。

 知らない人には良く勘違いされるのですが、「研究会」と名前はついていますが、学会です。由緒を辿れば、佐々木惣一先生・大石義雄先生の京大憲法研究会に至るので、あえて「研究会」の名前を残している、とのことです。

 内容はと言うと、吉野作造と言えば教科書では民本主義者、通説では民主主義者で平和主義者で戦後民主主義のさきがけ、のように語られて終わるのですが、通説の固定観念を真っ向から批判をしてみた、ということです。ここ五年位、そういう研究をしています。

 吉野作造と言うと左派(リベラル)の代名詞のように思われるのですが、冒頭の引用文をお読みになると如何でしょう。一番穏健な保守だと思われるのですが。

 引用は「国民生活の一新」(『中央公論』一九二〇年二月号)からです。吉野は生涯において、時の事情に応じて判断を変更することはあっても、近代主義者・敬虔な浸礼派・自由主義者であり、かつ「国家主義者」として一貫していた、との話です。しかも根底においては、常に天皇を大事にしていた、ということです。

 当時の普通の日本人にとってはそれは常識であって、吉野は常識人であった、と言っているにすぎないのではあるのですが。

 ただ、戦後民主主義の価値観では、民主主義・平和主義と国家や天皇は対立概念として捉えられるので、おかしな理解になってしまうという点は、ここ五年間強調しています。

 例えば、民主主義の根底にキリスト教があるなどと意味不明な言説があるのですが、「キリスト教」の中にも色々宗派があって理解が違いすぎるので、そんな一括りがそもそも可能なのかを疑っています。吉野の場合は、プロテスタントの浸礼派ですので、「キリスト者」などという粗雑な理解ではなく、「浸礼派」としての信仰を研究したいとは長年考えています。全然進んでいませんけど。