亡国前夜(6)―すべてを竹下登が決めた時代

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 中曽根康弘内閣は長期政権となった。最初の三年間は田中角栄の傀儡として。田中曽根内閣などと称された。最後の二年は、田中が倒れ、最大派閥田中派が分裂したこともあり、それなりの指導力を発揮した。「大統領型首相」などとイメージ戦略を打ち出していたが、実態は各派閥への根回しに奔走していた。もちろん最大の根回し対象は、田中派のほとんどを傘下におさめた竹下登である。

 吉田茂・池田勇人・佐藤栄作・中曽根康弘・小泉純一郎と、戦後の総理大臣は総選挙に二回勝った総理は安定政権を築いている。その任期のすべてにおいて安定していたわけではないが。

 中曽根も、竹下登大蔵大臣とその盟友(用心棒)である金丸信幹事長の協力で総選挙に勝利し、自民党総裁の任期を一年延長してもらった。これは小泉郵政解散の時も言われた話だが、国民が信任した総理を政党の都合で交代させるのは問題があろう。やはり、総理在任中は与党総裁の任期は数えないべきであろう。さもなくば、政党内の政権たらいまわしを認めることになる。

 現に竹下登もそのたらいまわしによって中曽根後継に就任した。しかも、候補者による話し合いの末、中曽根総裁の指名、という形で。当時のニュースでは「中曽根総理が竹下氏を後継総理に指名」などと流れていたが、この「」の部分、なぜそうなるのかをきちんと説明できる大人はあまりいなかったのではないか。形式的には、日本国憲法の規定に従って衆議院の首班指名選挙で選ばれるのであるが、その前に実質的に一部の政治家の談合で決まっているのである。しかも、中曽根の「裁定文」は、「安倍外務大臣を選びたかったの?」と思わせるような文言が並んだ後に「よって竹下登君がふさわしいと思います」である。

 竹下内閣は成立の由来からいかがわしかった。しかも、田中内閣と違い、強大な反対派閥は存在しない。「総主流派体制」などと称されたが、竹下の根回しとは、要するに通達である。野党に対しても同じことをするのである。ロッキード以来の疑獄事件と言われたリクルート事件で一年以上も世論の批判を浴び、消費税以下の支持率3%などと言われながらも、竹下が一番都合が良い時に辞めて、後任も自分の最も都合が良い人物に決めている。この間、野党も皆沈黙している。自分達もリクルート事件に関与していたのもあるが、竹下流国対政治に絡めとられていたからである。普段は元気な共産党までこの時ばかりはなぜか大人しかった。

 理解しにくいのであるが、この頃の野党は与党と談合して国会運営を行っていたのである。塩川官房長官など、「私は野党にお金を渡していました」などと公言していたのである。本気で政権をとる気のない野党ほど有害なものはない。田中角栄はこの種の工作費を「民主主義の必要経費」などと豪語していたが、その田中すら社会党・公明党・共産党の野党連合に衆議院解散に追い込まれているのである。竹下の野党対策の完成度や如何に。

 さて、竹下が宇野総理を選んだ理由は大きく二つ。一つは自分に忠実であること。もう一つは、中曽根派の一代議士にすぎない宇野を選べば生意気な同派の分断になり、中曽根派の実力者の渡辺美智雄が宇野後継に名乗りをあげづらくなること。他にも当選回数が、序列が、などと色々あるが、いずれにしても国民の意思とはまったく関係がなく、竹下一人の都合である。 

 竹下唯一の誤算は、宇野が参議院選挙に敗北したことである。ただ、この時は竹下の与野党談合体制は健在であったので、竹下の権力が大きく揺らいだわけではない。それなりに打撃は受けたが。

 次に選んだのは海部俊樹である。彼を選んだ理由は(馬鹿らしいので省略)。ただ、この総理、政権交代直後に解散をして安定多数を獲得した最後の総理なのである。しかも時の小沢一郎自民党幹事長が「体制の選択選挙」などと銘打ったので、自民党か社会党か、どちらかを選ぶ選挙となった。惜しむらくは、社会党が全員当選しても衆議院で過半数に遠く及ばない候補者しか立てなかったので、何の実質もなかったことであるが。

 あまりの竹下派院政に他の派閥(代表は小泉純一郎を含むYKK)や、竹下派内で反感を持つ政治家(代表は小沢一郎)の不満は高まり、海部は退陣に追い込まれた。この時、「竹下派傀儡の海部政権を倒せ!」と先陣を切っていたのが小泉純一郎である。誰に言われて?竹下に言われてである。この人、1998年には竹下に命令されて総裁選挙に立候補したほどである。この辺りの話、政治記事に当時から普通に書いてあるが知らないか、忘れているだけである。ちなみに小泉さん、「竹下派」を攻撃して名を上げたが、「竹下登」は一度も攻撃したことがない。

 次に選ばれたのが宮沢総理である。この人、結局何もできませんでした。竹下のいじめに耐えかねた小沢一郎が竹下派を飛び出した(追い出された?)り、自民党そのものから飛び出した(追い出された?)り、だけが唯一の特筆すべき事例である。

 さてここで問題。小沢一郎は間違いなく勝算ありと見て戦いを挑んだのであるが、少なくとも竹下派内の派閥抗争には完敗した。なぜでしょうか。この答が重要なのである。これこそが、日本国憲法統治構造の最大の理由なのである。

 

 長くなりそうなので、この項、一旦終了します。今回の記事、自分で書いていてイヤになるほどつまらない歴史的事実が羅列されているのだが、しかし事実なのだから仕方がない。しかも、これほどの出鱈目が日本国憲法の規定に一切反していないのである。おそろしや。