寺内対原(2)―実は「山縣対原対桂」―

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 伊藤博文死後、元老筆頭の地位にあったのは山縣有朋である。山縣は陸軍卿や参謀総長を歴任して日本陸軍建軍の父と言われ、他に内務・司法の治安関係の大臣も務めている。首相・枢密院議長として陸軍だけでなく、官界に多大な派閥を築いている。

 余談だが、共産圏の人にとっては、「内務・司法(法務)両大臣を務め、両省に巨大な人脈を扶植した」などというと、「恐怖政治の実行者」に思えるのである。なぜか。レーニン以下、各国の共産党が最初は他の政党と連立を組み最終的にその国を乗っ取る時に、まず獲得するのがこの二つだからである。「秘密警察を抑えてしまえば、政治家や官僚や軍人など恐くない」というのが共産主義者の思考法だからである。ただ、日本の場合はまともな秘密警察の伝統がないので、この法則を当てはめにくいところはあるのだが。それにしても、内務省(警察)と司法省(検察)は巨大な暴力装置であって、山縣がここを権力の源泉としたのは間違いない。後の首相の清浦奎吾など、ここの出身である。

 さらに余談。現代でも汚職事件が問題になりそうな時、法務大臣に誰がなるかは注目される。例えば、リクルート事件で竹下内閣が退陣した後など、総選挙で自民党が大勝した後は露骨に四代続けて竹下派が大臣である。それ以前も二代続けて、竹下派との関係が良好な人物である。その後も後藤田法務大臣という梶山幹事長と連携していた人物が就任している。つまり自民党が野党に転落するまで法務大臣を独占しているのである。今回、西松事件とか色々あるのに、法相人事だけはあまり噂にならないのはなぜだろうか。報道はあえて触れないのか?

 閑話休題。

 山縣有朋の派閥は、「山縣閥」と称される。当時は「長州閥」と呼ばれるが、山縣は優秀だと思えば山口県人以外も登用したので、「山縣閥」で良いだろう。

 陸軍の領袖は、山縣有朋〜桂太郎〜寺内正毅〜田中義一〜宇垣一成(岡山出身)

と、山口県出身であり、この人たちの伝記をつなげるだけで日本近代史の一側面を描けるぐらい重要人物ばかりである。

 さて、明治末年から大正初年にかけてはこの派閥にも色々と変化が起きた。寺内は山縣と組んで台頭し、中堅として実務の中心にあるのは田中と宇垣である。この時、彼ら陸軍が最大の敵とみなしたのは誰か?衆議院と海軍である。

 日露戦後の不況にもかかわらず、朝鮮半島の防衛に人員は足りず、師団を補充しようとしても予算がない。そのような所に海軍が「対米脅威」を煽り海軍増強を要求し、衆議院多数の政友会は海軍の主張に肩入れしかねない。「英独に比べ、我が海軍はもはや時代遅れになっている!」などと。以上の発言、どれも部分的には正論なのだが、結局は自分の組織益の為の作文に使われているのは間違いない。

 さて、このような中で別のことを考えていたのが桂太郎である。彼は出身の陸軍の主張も、長年提携していた政友会の魂胆もわかる。あまり知られていないが、桂は第二次内閣で大蔵大臣を兼任し、財政問題に自ら取り組んでいるのである。ついでに議会政治に関してもそれなりの識見を持っていくのである。そしてたどりついた結論は「自分で政党を組織するしかない。私利私欲ではなく、国家本位の政党を作るしかない!」である。つまり伊藤博文が政友会を結成したのと同じである。これが政党嫌いの山縣の怒りに触れない訳がない。

 桂は、長年の庇護者である山縣&寺内とも、長年の提携者である政友会(とそこにくっついてくる海軍)とも違う、独自路線を歩み始めるのである。

 桂太郎、日英同盟・日露戦争・四国協商・日韓併合・関税自主権回復と、大日本帝国にとって不可欠の英雄である。その英雄が第一次護憲運動で議会での演説と街頭での大衆運動によって倒されるのである。

 大正時代とは、英雄不在の時代の始まりである。英雄がいなくなって残ったのは、民意と議会と官僚である。

 今も昔も大事なことは、「国家本位の政党」が二つなければ、二大政党制どころか民主性そのものが成立しないことである。55年体制は、はなっから野党第一党が国家本位の政党ではなかった時点で失格である。では大正と昭和初期は?

 さて、今回のまとめ。つまりは三(四)大勢力になるのである。

一、山縣閥。嫡子の位置に寺内元陸相。

二、政友会。西園寺総裁(総理)の下で、原敬が実権。

三、桂。新党結成をめざす、新興勢力。

四、海軍。ただ、政友会と常に同一歩調なので一つに数えるかどうかは好みの問題。

(つづく)