信者言論と倉山塾の学びの違い

LINEで送る
Pocket

信者言論

=教祖気取りの「先生」が言ったことを正解だと信じる。

信者になりがちな人は結論は決まっているので、その人にとって気持ちのいいことを言えばよいだけなので、「先生」にとって「信者」商売は楽。

私には無理だが。そもそも、そんなに商売がしたいなら、言論活動をしない方がいい。

「先生」も「信者」も、「これが正解だ!」しかも「100点満点の正解だ!」に飛びつく傾向がある。そんなもの、滅多にある訳なかろうに。しかし、自分の信じる言論が「100点満点の正解だ」と思いこむと、異論に対し「0点だ」と攻撃的になりがち。かくして、「100点か0点か」の絶対に間違っている二択、という悲惨な言論状況ができあがる。

これに対し、倉山塾の「学び」とは。

「まず、倉山満が言っていることが本当か。自分で勉強して確かめよ」

だから、「信者」などいるはずがない。

目の肥えた読書人口を増やすことが国護り。

ネットで誰かが言ってたことを100点満点の正解だと思って拡散しても、国は護れない。

「信者言論と倉山塾の学びの違い」への2件のフィードバック

  1. > 目の肥えた読書人口を増やすことが国護り

    いい言葉ですねぇ。
    信者じゃありませんが(笑)、自分の読書経験も照らし合わせて、このお言葉には100%同意します。
    (読書のみならず、漫画、アニメ、特撮、映画、スポーツ・・・何にでも当てはまりそうですね)

  2. >信者になりがちな人は結論は決まっているので、
    >その人にとって気持ちのいいことを言えばよいだけ
    >なので、「先生」にとって「信者」商売は楽。

     こういう事がやりたい人は、アーティストにでもなれば良いんですよね。ミュージシャンに何人、ご信者さんがいようと、私は構いませんし。……否、逆なのか。本来なら、聴衆(読者)側が、それを本物かどうか見極めなければいけない。芸能人なら、単なる人気取りに終始しても構いませんが、言論人は知性判断力を売りにしてくれないと困ります。にも関わらず、ウケるか否か(ご祝儀を弾んでもらえるか否か)で発言を左右する「言論芸人」が多い。聴衆(読者)側が、それを振るい落とせば良いんですよね。
     私は最近、倉山先生の「自分の分野を持て!」とのお言葉を受けて、理系(医療寄り)の本をこれまで以上に読むようになりました。もともと興味があった分野なのですが、「政治(保守活動)には直接関係ないか……?」と、二の足を踏んでいたんです。でも、全然そんな事なかった。この分野も、左翼系の偽情報が多いですね!私は多方面に精通できるほど器用ではないので、暫くはこっちの勉強を頑張ってみます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA