東大憲法学は、学界の通説であるのみならず、実務にも多大な影響を与えている。現に、譲位をめぐる一連の過程で、安倍内閣はあらゆる場面で内閣法制局の言いなりになって天皇ロボット説を押し通した。
東大憲法学の開祖・宮澤俊義は、「八月革命」「国民主権」「天皇ロボット説」を唱えた。
曰く、昭和二十年八月十五日に日本では革命が起きて国民主権の民主国となった。天皇は主権者である国民の総意によって象徴としてのみ存在が許されているにすぎない。今や日本国憲法の体系においては、内閣の指示に従いめくら判を捺すロボットだ。
こうした理論に従って、日本は既に共和国であると主張する論者もいるし、控えめに言って憲法学者の過半数は、国民が支持をやめたら、皇室は廃止できると考えている。彼ら彼女らにとって9条を変えることは改悪で、天皇制廃止は改正らしい。
天皇ロボット説に、保守を自任する人たち、政治家や官僚、言論人までが知らず知らず染まってるから困る。
こうした考え方によれば、天皇はロボットなので、いわんや皇族をや。
ところが、宮澤の孫弟子、曾孫弟子に当たる世代の今の東大憲法学の教授たちは、「皇族の人権」を言い出した。特に、婚姻の自由を言い出している。
はっきり言う。なぜ皇族に婚姻の自由を認めねばならないのか? 現実の皇族は義務だけあって権利がない存在だ。たとえば選挙権も被選挙権もない。そもそも戸籍が存在しないのだから、参政権が存在するはずがない。GHQに取り上げられてなけなしとなった財産は国会の議決に拘束されるが、相続税の義務は容赦なく飛んでくる。
そもそも、日本人が普通に使う「人権」とは、日本国憲法第三章の「国民の権利」の言い換えだ。皇族は国民ではないから戸籍も国民の権利もないのであって、そこに「人権」を持ち出す方がどうかしている。人権を自由と言い換えても同じ。皇族は自由がなく義務だけで縛られているのが実態なので。
文明国の立憲君主制では、君主は権力と権限を自ら縛り、その行使の権限と責任は臣下にある。有事には君主は本来の統治権を行使して秩序を回復するが、平時は儀式を行う存在である。ただし、平時にも警告・激励・被諮問といった形で意思を表明する自由はある。それを聞き届けるかどうかは臣下次第。
こと婚姻に関しては、今は皇統の危機にある。今後の婚姻に関して皇族の方々のご意向を尊重すべきではあるが、自由奔放に権利を行使されては困ると申し上げるのが、臣下の務めである。
日ごろは天皇ロボット説による「国民主権の下の皇室」を唱える者が、「皇族の人権、婚姻の自由」を言い出すなど、この皇統の危機に付け込もうとする邪心以外何があるのか?
お前は皇族に人権を認めないのか? と言われたらはっきり答える。
はいそうです、と。
皇室史においては、自由な生き方ができたにもかかわらず、あえて自由を捨てて皇室をお守りくださった方々は何人もいる。
たとえば、思い出すままにあげても、土御門天皇、明正天皇、後桜町天皇、上皇陛下、皇太后陛下。
皇族に人権はない。だからこそ尊い。これが我が国の歴史だ。