詔書の重みについて

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 感性の問題です。

ビデオメッセージ

平成の玉音放送

 同じものを別の表記で表現してみました。
感じる重みが同じでしょうか。

 ではもう一つ。

天皇の人間宣言

新日本建設の詔書

五箇条の御誓文の再確認

 これまた同じものです。
もはやまるで別の内容です。そもそも「人間宣言」などどこにも存在しませんし。

 たまには自分のまじめな研究の一端を公開。
なぜかと言うと、「ビデオメッセージ」という俗称に不満なので、いずれ正したいと思っているからです。
今回は結論に行かず、基礎的な思考作業だけです。
ちょうど、まじめな御質問も受けたことですし、前からこの話をしてほしいという御要望もありましたので。
難しい話が苦手な人には飛ばしてもらっても構わない話です。

 まず最初に、近代では「詔勅」とひとくくりにされることが多いのですが、「詔」と「勅」
は違います。
「令義解」には、同じ綸言(天皇の命令)であっても、「詔」とは「臨時の大事」のこと、
「勅」とは「尋常の小事」のことと説明してます。「詔」と「勅」のどちらが重いかですが、もちろん「詔」です。
ただし、「勅」も手続きが煩雑ですのでかなり重いのですが。

 日本の歴史に関して専門家なら、この本を読んでいなければ「資格剥奪」と言われても文句を言えない名著が、

佐藤進一『新版 古文書学入門』(法政大学出版会、初版は1997年)

 なお、旧版との違いは、木簡学の成果を取り入れたことなので、基本的な議論の枠組みは律令制以来の成果です。左右のイデオロギーなど関係なく、理解できないと相手にされません。言わば、歴史学のルールブックです。
同書は、「自分は中世史ではないので」という言い訳が許されない、学部での必読書で、古代史・中世史・近世史の学生は必ず読んで内容を叩き込みます。
近代史では、私のような「入る学部を間違えた」と言われるような人間でも読んでないことは許されないですが、どうやらそんな私よりも不真面目な人間が多いようで。それはさておき、
この本に書かれてあることを否定できたら、それ自体が大学術論文というほどの権威がある本です。前近代史ではこの本に限らず基礎は共通しているので、主義主張と関係なく議論そのものは成立するのですね。

 さて、「〜入門」と名乗りながら、極めて高度な内容を緻密に整理してある『古文書学入門』に依ると、
朝廷の公文書である公式様文書の様式を規定した「公式令」には、二十一の様式があります。
その第一が「詔」であり、第二が「勅」です。それぞれの説明は既にした通り。「詔書」「勅旨」という言い方もします。

 次に、詔書にも宛所と内容によって五種類あります。
(それぞれ書き出し文が決まっていますが、それは省略。)

 一、大事を外国の使臣に宣する場合。
二、次事を外国の使臣に宣する場合。
三、朝廷の大事を宣する場合。(例)立后、立太子。
四、中事を宣する場合。(例)左右大臣以上の任命。
五、小事を宣する場合。(例)五位以上を授ける。

 これに従うと、宣戦布告などは「一」、敗戦を国民に伝達するのは「三」でしょうか。
昭和の玉音放送は「一」の意味もあるので、択一の問題ではないですが。
「ビデオメッセージ」こと平成の玉音放送は私は「三」だと思うのですが、如何?

 なお、日本には「宣命」という文化があって、民を集めて読み聞かせる伝統が大和朝廷成立以降も残ったようです。実際に民を集めるわけでも読み聞かせるわけでもないですが。
昭和と平成の玉音放送は、「電波に乗せて」「直接」「国民に語りかけられた」という三点で、異例中の異例の様式になります。

 律令制そのものは明治まで残るのですが、運用は摂関政治、院政、幕府政治と変化します。
当然、公文書の様式も変化します。その最たる例が「綸旨」です。
「綸旨」は元々は天皇が発する私文書だったのが運用の変化によって公的文書に、そして公文書になりました。(ここで「公文書」「公的文書」「私文書」の違いを言い出すと、別の膨大な話になるので省略。)
文書様式の変化は、天皇の地位や政治との関係によって変化します。例えば院政期には綸旨はほとんど出されないのに対して、後醍醐天皇はほとんどを綸旨で処理しました。

 我が国の歴史を振り返った時、文書様式を決定的に変化させた事件が二つあります。
王政復古の大号令と明治四十年公式令制定です。両方纏めて「明治維新」と括っても良いのですが、とにもかくにも明治時代に大変化が起きたのです。

 律令以来の公式令(くしきりょう)を改めた公式令(こうしきれい)によると、要するに詔書とは、皇室の大事と天皇大権の行使に関して発せられることになります。
「大権の行使」とか言い出すと、「貴族院議員の補欠選挙」なども入るので、私などは随分と「詔」の価値を軽くしたなと感じるのですが。
(ここでも話がそれますが、実は伊藤博文の公式令は失敗作だと思っています)
(伊藤の名誉のために話をもうひとつそらすと、公式令の整理は憲法典制定の百倍大変です。)

 それでも、「宣戦布告」は四回しかありませんし、「玉音放送」という「詔書」の中でも特に別とすべき様式は昭和と平成で一回ずつしかありません。この二つは、近代の詔書を様式で整理する際に、真っ先にあげられるべき様式でしょう。(していないことが、日本近代史の怠慢)

 なお、昭和二十二年に公式令は廃止されたのですが、代わる法令は制定されておらず、現在も公文書では踏襲されています。
最大の例)御名御璽

 だから文書様式だけを取り出せば、明治の律令制廃止と公式令制定は敗戦以上の大変革だったのです。

 おそらくここまで読んでくれたまじめな読者の方でも圧倒的多数は、
「なぜそんなことに興味を持つの」と思われたかもしれません。

 これを一回で分かれと言っても無理なのは承知ですが、この問題にこそ、日本近代化の矛盾が詰まっていると思っているのです。
「なぜ日本は大東亜戦争に負けたのか」
「なぜ日本の政治家や高級官僚(含・軍人)は頭が悪いのか」
「なぜ日本は一回戦争に負けたくらいで弱い民族になってしまったのか」
という疑問への解答にもなりえるのです。

※しつこいですが、大東亜戦争には負けましたが、大東亜聖戦には勝ちました。
この意図は過去記事で明らかなので省略。

 占領期や現代を研究していると、優秀な官僚は文書術に優れているので、日本人の強さと弱さの研究にもなります。
平成期、情報公開法という悪法の為に財務省を筆頭に官庁の“組織的”白痴化が甚だしいのですが、結局は個人の力量に過度に頼って組織防衛に走るというどこかで見たような姿が、文書を通すとよくわかるのです。日本の安全保障の問題に直結します。

 最後に主題に即して。
文書を軽く見ると怖いですよ。文書の表題ひとつとっても国家そのものや国民全体を誤導できますから。
その証拠は、冒頭をもう一度読み直してください。