明日(もう本日ですね)の帝国憲法講義のネタバラシですが、あえて。
日本の国家予算は最終的に国会(衆議院)が承認しますが、実質的には財務省主計局が編成しています。米搗き飛蝗のように主計局に媚び諂う政治家がどれほど多いことか。しかしそれをやらないと選挙民に「予算が取れる実力のある政治家」と認めてもらえないのです。議会が官僚に対して強すぎる国のアメリカ人にはまず理解できないでしょうが、日本では下手な国会議員より財務省主計局の一職員の方が強いのです。では下手ではない国会議員がどれくらいいるかというと、これはまた大変な話になりますので省略します。それ自体が戦後日本史の大事な側面になります。
では日本の国家予算を実質的に決定している財務省主計局は、憲法九条絶対擁護反戦平和思想で凝り固まっているのでしょうか。そんな人は、かの片山さつき様以外存じ上げません。実際、片山主計官は主計局どころか財務省に残れなかったのですから。「衆議院議員になれたでは?」が普通の人の疑問でしょうが、違います。主計局はそういう論理では動いていません。かつて福田赳夫という、主計局長時代に疑獄事件に巻き込まれて退職に追い込まれた方がおりました。この方、「主計局長をやったのに事務次官になれなかったのは可哀想」と総理大臣にしてもらいました。主計局は福田先輩に対する支援を惜しみませんでした。総理大臣にでもなれるなら別ですが、普通の大臣ましてや国会議員よりも官僚機構の頂点である財務事務次官の方が普通の官僚にとっては魅力なのです。だって政治家が頭を下げに来るのですから。
さて、月刊誌に掲載された現役主計官時代の片山論文、九条平和思想と国防費削減への執念が感じられます。しかし彼女にとっても大事なのは、「九条」よりも「国防費削減」なのです。現役官僚が自分の職務に関して部外に論文を発表すると言うことは、上司の許可を得ているのは間違いないです。では財務省高官は「九条」が大事だったのか、というとまずどうでも良いです。少なくとも「国防費削減」よりは。
ここで、「なぜ財務省は国防費を削りたいのか、これだけ周辺諸国の脅威があるのにおかしいではないか。彼らは外国のスパイではないのか。」などと思われた方も居るでしょう。たぶん、ほとんどの主計官は違います。絶対いないという証拠を提示できるほど事情に精通していないので「たぶん」「ほとんど」などと完全な断定は避けますが。もし反論がおありの方は事実を提示していただければ勉強させていただきます。そういう応用の話ではなく、以下はものの考え方の学問的基礎、言わば定跡についてをお話させたいただきます。
話を戻すと、なぜ財務省主計局は国防費削減に拘るのか。答えは簡単です。それが仕事だからです。財政赤字で日本は破産するのでは?などと言われています。緊縮財政で少しでも予算を削らなければならないことになります。そうなると国防費を削るのは主計官の仕事になってしまうのです。少なくとも、余程の条件―戦前の満洲事変以降の事態のような―が重ならない限り、国防費増額などまともには無理でしょう。主計官にとって「過去につけた予算をいかに削るか、無駄な予算を認めないか」が腕の見せ所になるのです。
そしていよいよ謎解きの最終局面です。なぜ他の予算と違って、国防費は一方的に削られるのか。理由は二つあります。一つは額が大きいからです。戦車一台約十億円、戦闘機一機約百億円、軍艦一隻数千億円。分割できない一つの単位でこれなのですから、額が小さい予算を細かく見るより効率の良い査定ができるのですね。
しかしダムや道路だって規模が大きいではないか、他にも公共事業など色々あるではないか、という疑問をお持ちの方も居るでしょう。そこで二つ目の理由であり、表題の疑問への解答です。抵抗力が弱いからです。額が大きくて抵抗力が弱い、これほど削りやすい項目が他にありましょうや。例えば公共事業費や農林関係費を削ろうとすると、国土交通省や農水省の応援団である族議員があの手この手で圧力をかけたりしつこく陳情に来たり、と説得が大変なのです。福祉予算を削ろうものなら同じく社労関係族議員が押しかけてきたり、マスコミに人でなし呼ばわりされたり、と大義名分を探すだけでも一苦労になります。あと社労関係は法律が特に難解で、という大変さもあるのですが。
それに引き換え、防衛省は?経済財政諮問会議に呼ばれていましたっけ?何を主張していましたっけ?
官僚はしばしば権限争奪に奔走しすぎる、と批判されます。しかしこと防衛省自衛隊に関してはそれは当てはまらないでしょう。これ、まったく褒めていません。むしろしっかりしてください、と思います。これだけ周辺諸国の脅威がある中で、防衛費の増額を実現できない防衛省自衛隊、官僚機構の論理としては無能者の烙印をおされてしかるべきでしょう。これも関係者から反論があれば受け付けます。その代わり、先に再反論しておきます。「今の予算で間に合っていますか?あなた方がまともな防衛費を獲得できないことで日本の国防は危機に瀕していないと言えますか。九条や国民の無理解無関心は同情に値しますが、それを改善するためにどれだけの努力をしましたか」と。
田母神騒動で防衛省自衛隊は、ただでさえ設立以来肩身が狭いのに、ますます萎縮しています。しかしそれに関しては私は一切同情しません。内局の背広組はもちろん、将校以上の高級軍人は政治のこともわかっていなければならないのは古今東西自明の理です。ましてや官僚機構の論理をや。戦前の陸海軍は予算獲得が自己目的化して組織がおかしくなりましたが、戦後の自衛隊はまともな予算を取れずに組織がおかしくなっています。
私の話、特に講演の感想などを聞くと、「日本に住んでいるのが恐くなる」「今、とんでもない事態が起きているんですね」「知らなければ気楽に暮らせたんでしょうけど、知らないでいざとなったらと思うと聞いておいてよかった」とほとんど毎回言われます。
誰も言わないなら私は言い続けましょう。問い続けましょう。
「今の自衛隊は日本を守れますか」
こんなことを軍事の専門家でもない私が言わなければならない時点で、如何に国防論議が困難かお分かりいただけたでしょうか。
安易に核武装論を唱える論者にも一言。財務省主計局を説得できる理論武装をしましょう。政治家や国民を煽るのも結構ですが。ちなみに、核を何発か持てば国防は終わり、ではありません。むしろそこから先が大変なのです。
最後に、クラウゼヴィッツ曰く「戦争は、国民と軍隊と政府が三位一体で行うものである」と。誰かのせいにするのではなく、今後どうあるべきかを禁忌抜きで議論すべきである、が趣旨です。「九条への批判は許さない」と同様、「自衛隊は可哀想だから批判するな」も禁忌にしてはいけないでしょう。戦後の特殊事情というあらゆる呪縛から自由な議論こそが求められるでしょう。