「誰も教えない時事と教養」カテゴリーアーカイブ

日本国史で最も正しい憲法違反

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 よく聞かれる質問が
「世論で世の中が変わるのですか?」
です。
答えは「変わります」です。

 嘘だと思う人は

『総図解 よくわかる日本の近現代史』

(新人物往来社、税込1470円)

をお読みください。

 昭和五十一年以後の衆議院選挙は、すべて「風」で決まっています。
昭和初期の「軍部の独走」なるものも、世論には逆らえません。
大正時代は、特に桂・山本・寺内・清浦の四つの内閣が大衆のデモで倒れるなど、絶頂です。
明治には自由民権運動がありました。
さらに、江戸幕府の第二次長州征伐が失敗した要因の一つが、世論の離反です。

 以上のうち二つは明らかに悪影響ですが、「変わる」という事実認定への答えとしては十分でしょう。

 最古のデモは、室町の一揆でしょうか?元々の「一揆」の意味は、「徒党」ですので、今のアメリカの「ティーパーティー」が近いですね。

 ところで、「御所千度参り」はご存知でしょうか。

光格天皇 「身の欲なく天下万民を」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101027/acd1010270750002-n1.htm

 全文抜粋すると、

 御在位中、天明の大飢饉(ききん)が数年間続き、全国的に餓死者が出た。
ところが幕府、諸藩が窮民救済の有効な対策をとらないために各地で一揆や打ち壊しの暴動が頻発、江戸でも大打ち壊しが起きた。そうした中で天明7(1787)年6月、京都において町民らが「御所千度参り」を始めたのである。10月ごろまで毎日多くの人々−最も多い日で7万人−が御所の築地塀の周囲(約1300メートル)を回り、南門前面の敷石に銭を投げ入れ紫宸殿(ししんでん)に向かい手を合わせ祈念し拝礼した。
京都でも米価が上がり餓死者が多く出たから、町人は京都所司代や京都町奉行所に窮民救済を繰り返し嘆願したが、所司代、奉行所は放置した。そこで人々は御所千度参りという非常手段をもって光格天皇に直接救済を訴えたのである。
人々の苦しみを深く憂えられた天皇は、幕府に対して窮民救済を申し入れた。朝廷が幕府の政治に口を出すことは厳禁とされた時代、全く前代未聞の異例の措置であった。その結果、幕府は京都の人々に1500石の救済米を出した。人々は光格天皇の仁慈(じんじ)に感泣した。
天皇は「身の欲なく天下万民をのみ慈悲仁恵(じんけい)候事(そうろうこと)人君なる者の第一のおしえ」と述べられている。これが皇室の不断の伝統である。
天明の大飢饉は幕府の威光を低下させ、天皇、朝廷の権威を高める一契機となった。
(日本政策研究センター 主任研究員 岡田幹彦)

 要するに、時の政府が経済危機に際して何もしないので、陛下は憲法違反を承知で口出ししたということです。

 派遣村も代々木公園ではなく、皇居近くに作ればよかったのか。国立公文書館とか。
湯浅誠氏、左翼だからそれはやりたくない?
ならば本石町で毎日デモをやればよいのでは?

日本の自殺者三万人!

 

日銀総裁・白川さん!

とか呪文の如く唱えながら。

 それにしても、ウィキペディアの光格天皇の項目、専門家の目から見ると、悪意が凝縮されているなあ。「御所千度参り」という言葉すら出てこないし。書いている本人は「価値中立実証主義者」とか思っているのだろうけど。