完全無欠の・・・

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 検察は、完全無欠の・・・

ロックンローラー!

とテレビで本当に言ってしまった元検事の弁護士がいた。

“Courier New”>http://www.nikkeibook.com/writer/105/

 某フジテレビのパクリ番組で、毎回のようにハマコーに怒鳴られていた人だった。

 それささておき、小沢事件。
「プロの検察が不起訴にしたのに、アマの検察審査会が起訴相当にした」という解説が散見されます。それ、ミスリードしかねませんね。
 早速「新たな証拠を検察審査会は見つけられるのか」とか、わかったようなわからないような議論もある次第でして。
 大前提ですが、今回の起訴するかどうかの判断が検察と検察審査会で割れたのは、裁判で勝てるかどうかの判断だけでしょう。

 では最初に、近代刑法の初歩、法学部だったら一年生レベル。
 大学卒業までには、教養課程で知っておきたい知識を。

第一問
 近代刑事裁判で「裁く」という言葉が正しいとしたら、裁かれるのは誰か?
 ヒント。被告ではありません。

 正解は?
 原告です。
 より正確に言えば、近代刑事裁判とは、事件発生から警察の捜査・逮捕、・・・(ずーっとあって)・・・検事が起訴するまでの過程で、手続が適正であったかの審査です。
 だからすべての挙証責任は原告にあります。
「裁く」という言葉が正しければ、裁かれるのは挙証責任を負う原告です。

 ちなみに今までは原告は必ず検察でしたが、現在の検察審査会制度の改正により、検察が不起訴なのに強制起訴した場合は、指定した弁護士が検事の役割をします。

続けて、
第二問
 以下の内、被告が有罪になる場合をすべて選べ。

 左対右で「原告対被告」です。

一、100対0・・・100%証明できる。完全に被告は犯罪をやりました!
二、99対1・・・100%とは言えないが、まず間違いなく被告は犯罪をやりました!
三、51対49・・・どちらかわからないが、どちらかと言えば、被告は犯罪をやったのではないかと考えられる。
四、49対51・・・どちらかわからないが、どちらかと言えば、被告は犯罪をやっていないのではないかと考えられる。
五、1対99・・・100%とは言えないが、まず間違いなく被告は犯罪をやっていないようです。
六、0対100・・・100%証明できる。完全に被告は犯罪をやっていません。。。

正解は?

「一」だけです。
「四」「五」「六」が無罪なのはわかるでしょうが、「二」や「三」も無罪なのです。民事との違いです。
 検察は完全な挙証責任を負っています。近代刑事裁判とはそういうものです。強大な行政権力(原告)対個人(被告)の図式ですから。
 今回の小沢事件、今のままの証拠では、「二」から「三」の中間なのですね。「一」と判断している人もいるようですが。

 いずれにせよ、その人が「一」から「三」のどれだと思って発言しているのかを抑えておかないと、何が何だかわからなくなります。

 さて、
 ではなぜそもそも検察は起訴しなかった?
 負けるのが恐いからです。

 幹部は政権与党の幹部に喧嘩を売って負けたらどうしようしか考えていないのでしょうね。
 取調可視化法案を取り下げる取引ができたから「これでいいのだ」?
 中には世論を恐れて「やっぱり起訴すべきかなあ」などと考えている人もいそうですが。

 したり顔の法律オタクは「二」ではない、「三」なのだ。などと勝手に納得しているのでしょう。テレビのヤメ検(元検事ではなくあえて失礼な言い方をします)の解説、大体これですし。

「絶対的に忠誠を誓っている大物政治家の億の金を、子供のような秘書が勝手に操作しました」
って、証拠がないなら「執拗な隠蔽の疑いがある」と看做した今回の検察審査会の方が常識的なのではないでしょうか。
 検察に限らず法律オタクに無くて、アマチュアにあるもの。
「裁判で事実を明らかにしよう!」という意識。

 一応法学教員の端くれの立場から言いますと、 事実を明らかにすることで、審査の正当性が挙証できるのではないでしょうか。
「手続論がすべてだ、事実なんかどうでも良いのだ」はアメリカ法にかぶれすぎてませんか?と反論したくなるのですが。

 私見。
 検察は、今回の決定を受けて起訴すべきだと思います。
 検察審査会任せにせず、自ら起訴して戦うべきでしょう。
 これは政治論抜きで。
 さもないと、検察が起訴を諦めるほど隠蔽工作が上手ければ、何をやってもよいことになるのではないでしょうか?

 アメリカ法と似てもいないし非なるイギリス法が重視する

「正義の実現」

を、我が国の検察はどう考えているのでしょうか。

 光市母子殺害事件での地検検事の

「これは何度負けても勝つまでやらなければいけないんだ!」

という発言などには、検察官の良心を感じるのですが。

「たぶん悪いことをやっているのだろうけど、証拠を見つけられないから諦める」、で良心は痛まないのでしょうか。負けても「99対1の挙証しかできませんでした。」は恥ではないと思うのですが。

「完全無欠の・・・」への0件のフィードバック

  1. >正解は?原告です。
    この発想は斬新ですね。とはいえ、説明は全くそのとおりなので(適正手続の保障は近代憲法の大原則です)、説明のとおりだとすれば結論は全くそのとおりだと思います。
    >正解は?「一」だけです。
    刑事訴訟の立証は「およそ合理的疑いを差し挟む余地がない程度」まで必要とされていますので、これもそのとおりでしょう。よくあるたとえ話で「9人の極悪犯罪者と1人の無辜の民」というのがありますが、「たとえ9人の極悪人を野に放つという危険があっても、たった1人の無辜の民を犠牲にしてはならない」のが近代刑事訴訟制度ですから。

    よく「日本の検察庁はほぼ100%有罪を勝ち取ってくる。だから日本の検察庁は優秀だ」という話を聞きますが、真相は「勝てそうな事件しか起訴しない」からなんですね。つまり「疑わしきは起訴せず」の伝統があるわけで、勝って当たり前の勝負をしてるだけなんです。これをもって「検察は優秀」というのはどないやねん、という気がします。
    「およそ疑いがあるなら、出るとこ出て白黒つけようじゃないか!」という気概があっても良さそうなものですが。

    ちなみに、検審の権限ですが、よく調べてみたところ「1回目で起訴なら検察が担当、2回目の審査まで行ったら指定弁護士」というのが正確なようです。先日の書き込みは訂正いたします。
    陳謝m(_ _)m

    さて、今回の件とは関係ありませんが、今週号の「ゴー宣」読んで感じたことをひとつ…

    「もういい加減、愛子様や悠仁様を保守論壇の内ゲバに利用するのはやめませんか?」

    愛子様は小学生、悠仁様は今年幼稚園に入ったばかりで、いずれも子どもです。一般社会なら「ガキ」と呼ばれる人たちです。
    まぁ皇族方が一般社会とはかけ離れた人たちであることは理解するとしても、こんな子どもたちをテメェの思想を満足させるために利用するなど、「人でなし」のすることでしょ普通。法に則り粛々と事を進めれば良いじゃないですか。

    現状で考えれば将来は悠仁様がご即位せられるのは確実なんだから、大人のすべきことはそのための環境整備でしょ。こんな子どもたちに日本の未来を背負わせといて、何の良心の呵責も感じない人なんて、人でなしですよ。

    千葉参謀だって我夢のような若者に地球の未来を託さなければならない不甲斐なさを恥じ入っていたというのに…

    愛子様、悠仁様をテメェの勘違いを満足させるために利用してるすべての保守論壇人に言いたい。

    「おまえら全員、崇徳上皇に祟られろ!」
    …あ、こんなこと言ったら俺が真っ先に祟られるかも…

  2. 倉山さん

    おはようございます。藤沢です。
    原則3ヶ月以内に検察は結論を出さないといけないみたいですね。何て素晴らしいタイミングなのでしょう。
    結論を参院選後にするのではと思う方が普通ですが、それはそれで選挙目当ての先延ばしとの批判は避けられないでしょうね。

    しかし今回の件を見て思うのですが、「不起訴不当」と「起訴相当」の二つに分ける理由が良く分かりません。起訴というのはするかしないかの二択な訳で、「不起訴不当」というのは不要だと思います。

    それにしても、倉山さんが繰り返し主張されている不文律の重要性、「別に法律で決まっている訳ではない」と言い放った鳩山総理に聞かせたい話です。
    連休明けも目の離せない展開が続きそうです。とことん追い詰めた状態で選挙戦に突入したいですよね。引き続き頑張って下さい。
    それではまた。

  3. 検察の役割が「正義の実現」というのは行き過ぎでしょう。そもそも正義が最初からあるわけではありません。国家が主権を独占しているからこそ、法という形で正義を統一できるわけで、それが統治権です。
    法律は最低限の正義かもしれませんが、それが最高の権限を持つからこそ国家が排他的主権を持ちえるのです。
    要するに正義とは国家が定めるべきものです。倉山さんは自然法を広く認める立場ですから、おそらく私とは意見が異なるかもしれません。しかし、国家が正義を統一しなければ主権国家は成立し得ないと考えます。
    検察官の任務は、国(刑)法に照らして違反行為を犯罪として訴追することであり、「証拠を見つけられないから諦める」でよいと思います。別に良心は必要ありません。殊に個人の良心は、国家の法と異なることもありえますから、良心は百害あって一利なしではないでしょうか。あくまで必要なのは任務に対する使命でしょう。

  4. SC様
    久しぶりにまじめな議論ができそうなので。

    我が国の弁護士法の第一条に「社会正義の実現」が掲げられています。綱領規定の最たるものですが、しかし綱領であっても残しておかねばならない規定の最たるものでもありますよね。弁護士法でそうだということは、帝国憲法とイギリス法で凝り固まっている私は、法曹家たるもの「社会正義の実現」が使命であると看做しています。「そんなものは必要がない」と言った瞬間、相手がどんなに偉い人でも軽蔑してきました。

    人によって解釈や定義は違えど、自己の良心として考え続けなければならない、そして法曹家の活動を通じて実現していかねばならない、それが「社会正義の実現」ではないのでしょうか。もちろん、検察もしかりです。

    で、私はこの場合の「良心」を「任務に対する使命」と定義します。ここで、私とSCさんの議論の前提は一致します。

    では何が争点か。
    検察が「証拠を見つけられないから諦める」ことが「任務に対する使命」を果たしていないことになるのかどうかです。
    以下、まったく異なる立場の論点を三点挙げます。
    第一点。小沢一郎の言動は反国家的である。だから、検察は証拠があろうがなかろうが起訴し、仮に彼が後に無罪になろうが何だろうが、政治的打撃を与えるべきである。そもそもあれだけ国策捜査をやっておきながら、何を今さら。
    第二点。完璧な証拠がないから常識的に明らかであっても起訴しないのは、単に負けるのが恐いだけで職務放棄である。
    第三点。裁判の判決が下るまで被告は無罪の推定を受ける。よって、検察官が「勝てそうもない」として勝手に不起訴にするのは、司法権の簒奪であり、すなわち国法への反逆である。

    以上の、理由から検察が起訴しないのは許されるべきではない。
    所見如何?

    ちなみに、SCさんの所説に則って細くすれば、「正義」はjusticeそのままの形ではなく、equityという「形」を通して「実現」されると考えています。
    以上、イギリス法の独特の術語なので、辞書を引いてもわからなく、難解かも知れず、他の読者の方々には申し訳ありません。

    叔父さんの息子様
    上の話、「勝てそうな事件しか起訴しない」の是非が争点です。

    藤沢様
    英国には「司法的慣例」という不文律があります。司法権、特に刑法関係は何でも成文化した方が良いので、それは英法の行き過ぎではあるのですが、しかし、我が国でも「勝てそうな事件しか起訴しない」が許された不文律と法制度は不備であったと思います。
    光市の事件でも、一人の検察官が「負けても勝つまで戦う」と戦い続けたから、死刑を勝ち取れた訳です。検察はあの事件では威信をかけていました。もし「勝てそうもないからやめよう。無期懲役でもいいじゃない」などとなったら、被害者と遺族の悲しみや怒りは?泣き寝入りですか?そうではないでしょう?という時に持ち出されるのが「正義」という概念です。
    ここで「現行法と判例とか見てると勝てないからやめようぜ」という怠惰を言い出す馬鹿がいたとき、「正義」が無ければどうやって反論するのか。
    以上、私が法において「正義」の概念を重視する理由です。

  5. なかなか高度な法律論になりそうなので、私もちょっと準備するのに時間が掛かってしまいました。

    >砦主様
    小沢なにがしの言動が反国家的なのはそのとおりだと思いますが、それを「起訴すべき」根拠とするのはどうかなぁ、と思います。政治的打撃を与えるために起訴するのは、いわば検察の政治利用になりかねないか心配です。単純に「犯罪の疑いがある。だから起訴すべき」だけで充分では?
    政治的、或いは社会的制裁は、あとから付いてくるでしょう。
    >勝手に不起訴にするのは、司法権の簒奪
    検察官にはいちおう立法で認められた「起訴便宜主義」がありますので、起訴しないことを直ちに「司法権の簒奪」と言ってしまって良いものかどうかは疑問です。
    でも今回だけは起訴してほしいぞ( ̄。 ̄)ボソッ

    >SC様
    お久しぶりです。
    SC様のご意見はドイツ法的思考だと思いますが、当のドイツ法も形式的法治主義がとっくに破綻してますので、いちおう成文法の上位概念としての「正義の法」の存在を前提とした実質的法治主義に移行しつつあるという実情があります。ですので「立法が正義を定義する」のには限界があると思います。

    それから、実務的な立場から申し上げますと、「立法が正義を定義する」のならば、まさに今こそ起訴すべきかと思います。「検察審査会法」という正義がありますから。
    もし今、検察が不起訴を決め込んだとしても、おそらく再審査で同じ結果が出るでしょう。そうすると、公訴提起は指定弁護士の仕事になります。しかし弁護士は刑事訴追については素人ですし、何より捜査権がありません。勝てる見込みは検察が起訴するより低下します。このことは、明石陸橋事故や福知山線事故を見れば明らかでしょう。
    ならば、今こそ検察が検察審査会法の正義に基づいて起訴すべきと思います。

    別に私は小沢なにがしの肩を持つ気はないのですが、被疑者被告人は「無罪の推定」を受けます。まして逮捕も起訴もされてない小沢なにがしは今のところ「全くの潔白」です。潔白であるにもかかわらず「やっぱり小沢は何かやってるんじゃないか」という疑いを持たれたまま人生を過ごすならば、むしろかわいそうです。「潔白であることを法的に証明する」機会を与えるほうが、道に適ってるのではないでしょうか。

  6. 倉山様

    弁護士法を根拠にされていますが、国家の行政官庁として存在する検察官とは根本的に立場がことなります。検察官は一般的な国家公務員よりも独立性が高いとはいえ、国家から命を受け任務を果たすべき存在です。
    当然のことながら、検察官個人が思う社会正義と国家の意思が食い違うなら、国家の意思に従うべき立場でしょう。

    ちなみに弁護士法は(昭和二十四年六月十日法律第二百五号)とあるとおり、占領下で施行された法律ですから、多分に悪しき(英)米法的要素を持った法で、国家より上位に法があるという前提の下に立法されており、大陸法を基礎としたわが国の法体系には本質的にあっていないものでしょう。(主権国家の概念にも適わないのではないでしょうか。)

    話を検察官にもどしますが、「(検察官の)良心」と「任務」は必ずしも一致しないものであります。もちろん任務遂行を良心とするなら、一致するでしょう。

    さて、争点についてです。

    第一点の小沢一郎は、確かに言動もその存在も反国家的です。しかしながら日本国はそれを訴追することを命じていません。反国家的存在を犯罪とする法律がないからです。殊に刑罰に関わるものは罪刑法定主義により法律により根拠を必要としますから、法律の規定がない以上、それは検察官の職務外の問題です。もちろん反国家的存在取締法でもできれば第一点は成立しますが、現憲法下ではもちろん無理でしょう。小沢を取締る法律ができるとすればもちろん賛成ですけどね。

    第二点の「負けるのが怖い」というのは事実でしょうが、証拠がないから起訴しないのとは問題が別です。無罪推定の法理の下では、立証できないということは事件の事実がないということです。もちろん国家が無罪推定を否定する法律を作れれば話は別です。

    第三点は「勝手に不起訴」にするわけではありません。法律に照らして起訴するのが検察官の任務だからです。当然法律に従ってのことです。司法権を簒奪したことにもなりません。司法は、法律にたいする違反を裁くところで、その事実がなければ司法権の問題外だからです。

    equityとは、数学などでいうところの=と語源を一にするものでしょうか。私はそもそも国家から分離した正義というものの存在を認めていません。したがって倉山さんの言うところの正義は存在しないと考えています。先にも申しましたとおり、国家の命令に従うことを正義であると理解しています。

    第一及び二点で述べたとおり、国家が命じたのなら小沢を起訴できると考えます。

    私は(英)米法的な、「法の支配」という考え方には否定します。もしこれを採用するなら国家が最高で唯一の権力ではなくなるからです。権力の相対化を認めるならウェストファリア以降の近代国家体制を否定することになります。

    Comment by 叔父さんの息子様
     
    コメントありがとうございました。「ドイツ法も形式的法治主義がとっくに破綻」という傾向は認めますが、それは上に述べたとおり私は否定する立場です。成文法の上位概念の存在を認めることは、主権国家の否定につながります。

  7. >SC様
    実定法主義を徹底すれば、たしかにそうなりますね。

    しかし「立法が正義を定義する」ことを徹底すれば、「立法、つまり議会を仕切ることができれば、自由に正義を定義できる」ことになります。つまり「正義は数によって決まる」という、かの角栄翁の言葉通りになってしまいます。
    これを現状で見るならば、民主党が正義を定義できることになります。もちろん、民主党だってなんでもかんでもやりたい放題というわけにはいかないでしょうが、「概ね民主党的な立法」による正義は実現できます。

    では、ここで想定してみてください。
    「外国人地方参政権」が国会を通過すれば、それは正義ですか?
    男系男子の秋篠宮殿下や若宮様がおられるのに、愛子様を皇位継承者に位置づける皇室典範改正がなされたら、それは正義ですか?

    おそらく「それは違うだろ!」と突っ込んでしまったと思いますが、その常識や感覚こそが「正義」なのだろうと思います。
    もっと突き詰めれば、多数派が「天皇を断頭台に送れ!」と言い出したら、それさえ出来ることになります。これは冗談でも悪ふざけでもなく、世界史を見ればそんなことは普通にありました。日本でだけ起こらない可能性もなくはないと言えます。それが正義でないことは、すぐにでもお分かりでしょう。

    立法府の多数派、言い換えれば国民の多数派が正義を定義できるとすれば、その「多数派」が狂いだしたときにえげつないことになります。だからこそ、ドイツでは形式的法治主義が破綻したのです。

    自然法の意味は多義的ですが、私は国民の常識や伝統に「立法を超えた正義」があるのではないかと考えています。

  8. 叔父さんの息子様
    つまり第二点の論拠で、小沢起訴に賛成ということで宜しいでしょうか。

    SC様
    おっしゃる「国家」がすべて「政府」と同義に置き換えられてしまうのですが。ならば、小沢は政府を通じて国家を恣意的に運営できることになります。
    私の誤解であれば説明してください。
    SC様が「国家」と「政府」を同じ意味で使っているのか、違う意味で使っているのかがわからないので、そのほかには言及できませんので、お願いします。

  9. SC様への追伸
    equityとは、イギリス法で言う所の、「衡平」です。
    日本固有法の「道理」とほとんど同じものです。
    源頼朝や北条泰時を思い浮かべてください。
    違うところは、それぞれの国の歴史的背景くらいです。

  10. 叔父さんの息子さま

    <「外国人地方参政権」が国会を通過すれば、それは正義ですか?
    男系男子の秋篠宮殿下や若宮様がおられるのに、愛子様を皇位継承者に位置づける皇室典範改正がなされたら、それは正義ですか?>

    そうです。正義になってしまいます。だから民主党に政権を取らせてはいけないし、速やかに政権を簒奪すべきなのです。

    <多数派が「天皇を断頭台に送れ!」と言い出したら、それさえ出来ることになります。>

    だから民主主義は問題のある制度だということになります。もうこうなれば武力闘争しかないでしょう。それに勝てば正義を手中に治めることになります。

    まあある程度、仮定が極論に近いので、回答も極論にならざるを得ません。もともと法律論ですから司法の問題です。法廷における論争で収まるならいざしらず、国会が正常であれば、むちゃくちゃな法案が賛成多数でいつも通過できるわけではありませんし、法執行機関や実力部隊を動かす法も改正しなければ、めちゃくちゃなこともすぐにはできません。

    <「多数派」が狂いだしたとき>

    国家が狂えば、正義も狂います。

    倉山さま

    <「国家」と「政府」を同じ意味で使っているのか、違う意味で使っているのかがわからないので、そのほかには言及できませんので、お願いします。>

    それは国それぞれではないでしょうか。立憲君主制であれば別ですね。ということで日本に限れば天皇陛下があらせられるので、別という話になります。

  11. SC様 叔父さんの息子様
    日本においては、政府は国家の一構成部分にすぎないとの立場は共有できたとの前提で話します。

    叔父さんの息子さんとSCさんの議論に関して。
    英国のような世界最強の立法府を持つ国では、強力な憲法習律で立法の暴走を抑制する制度になっています。そのように法体系を組み立てていますので、例えば「君主を断頭台に送れ」などという立法はできないようになっています。必ずしも無限の独裁権を委任している訳ではありません。どうやら小沢一郎氏はそのように誤解しているようですが、文字に書いていない法こそ重要、というのが彼にはわかっていないようです。
    翻ってscさんの議論に戻りますと、「選挙で選ばれた国会が法律を作り、その国会に選ばれた政府の意思は、国家の意思である、だから従わねばならない」は、さすがに極論かと思われますし、いきなり武装蜂起というのも行き過ぎでしょう。仮定の話としても。解釈の仕方次第で武装蜂起のようなコストとリスクが大きすぎる方法は不要かと思います。

    で、元の議論に戻って。お二方は、「検察官独立の原則」に関しては如何思われますか?
    時の政権与党が何をしようが、自己の良心に従って独立官庁である検察官は起訴できます。「51〜99%の証拠はあるけど、1%でも負ける可能性があるから起訴しない」、という結論だけが政府が命じる正義とはあまりにも不合理な結論ではないでしょうか。
    SC様の議論は、ドイツ第二帝国のような、極端に肥大化した行政国家であれば成立する議論でしょうが、そのような欠陥制度はビスマルクのような曲芸師でなければ運営できないと歴史的に証明されました。

    ちなみにニクソンは大統領就任時に、「私の使命は政府から国家を守ることだ」と述べました。

    我が国の問題点は、民主主義の仮面を被った官治主義で、小沢如きに脅える検察幹部のような国家意識のない官僚に重要な権限があることではないでしょうか。

    結論というか私の主張の再確認ですが、現行法においては、検察官は今回の検察審査会の決定を受けて早期に起訴に踏み切るべきだと思います。

  12. >砦主様
    私もほぼ大筋において同意です。
    検審も裁判員も、そもそもは「法律について何も知らない国民の良識を司法に反映させよう」という趣旨ですから、審査員も「これは職務放棄ではないか」と感じたということでしょう。外野で騒いでる我々ですらそう感じるのですから、審査員の皆様は尚更だったでしょうね。その苦労には頭が下がる思いがします。

    >検察官独立の原則
    これは検察業務が準司法作用などと呼ばれるように、政治的圧力から法の正義を守るために設けられた制度ですので、それ自体は大事なことなのだろうと思います。むしろ問題は「法廷で負けたら恥ずかしい」という根拠不明のプライドの方でしょう。ただ、この点は検審の権限が強化されたことで今後改善の方向に向かうのではないかと期待しています。

    >SC様
    民主主義にも「多数決的民主主義」と「立憲主義的民主主義」があります。「民主主義」の意味は多義的なので深入りすることは避けますが、要は「多数は多数ではあっても万能ではない」のが立憲主義です。つまり「多数が常に正義であるとは限らない」ことが前提になっています。

    「多数」の意味をどう捉えるかはいろいろな見方ができますが、私は多数が狂いだしたときにいかにして「歴史」や「伝統」を楯としつつ国民の良識を貫くか、というところに正義があると信じています。

  13. 倉山様
    <「検察官独立の原則」に関しては如何思われますか?>

    私はこのように考えます。すべての場合にアナロジーが通用するわけではないでしょうが、戦争と同じではないでしょうか。

    まず検察官の任務というか、使命は、法秩序を守るため原告勝訴することでしょう。

    <「51〜99%の証拠はあるけど、1%でも負ける可能性があるから起訴しない」>とは、戦争に例えるなら国は戦って勝てと命じているのに対し、勝算があるにも関わらず戦おうとしないことであり、敵前逃亡に当たります。当然、国に対する抗命です。戦時における司令官なら銃殺です。

    では、勝訴の見込みがない、それどころか公訴維持すら困難なほど、証拠が不十分であれば、どうでしょう。これを起訴するということは、戦争なら、勝てる見込みがまったくないのに、主戦論を振り回し、敵にいらぬ反撃の正当性を与えてしまうようなものでしょう。被告は不当起訴として国を訴えます。それで敗訴すれば国家賠償しなければなりませんし、それこそ政治的にも叩かれます。

    検察官独立原則は、国家(政府)が、法律とその運用のプロに判断を任せているのだと思います。戦争なら、ここは戦うべきか、戦わざるべきか国家指導者は、何とか会議で、総参謀長に意見を聞くと思います。当然、勝ち目のない戦いなら、「ここは自重すべきですと進言するでしょう。」

    でもシビリアンコントロールがありますね。その一つは法務大臣の指揮権発動でしょう。そして国民の側からすれば、検察審査会があるわけです。

    検察審査会が起訴相当と判断することは、戦争であれば、国民が戦えといっていることにあたります。今度の改正では2回目の起訴相当に当たった場合は、検察の意見を聞いた上で判断をするとなっていますね。

    先の大戦で山本長官が「1,2年は暴れてみせる」という名文句があります。国民の意思が国家の意思という国家であれば、軍人は戦争に反対でも戦わなければなりません。いわば検察官に玉砕を命じているわけです。これで負けても、戦い方に問題がなければ、その検察官は国民の英雄でしょう。

    今度の検察審査会法では、三回目の判断で起訴相当とした場合は、強制起訴となるように改正されました。この際、原告は検察官ではなく弁護士となるわけです。これはさしずめ、正規軍が戦うべきではないと判断しても、国民が民兵隊を使って戦おうと主張していることにあたります。まさに日比谷焼き討ち事件的事態、あるいは義和団事件的事態です。

    シビリアンコントロールなら、軍の総司令官は本来なら命令に服して勝ち目なき戦いを戦うか、銃殺覚悟で抗命するか選択を迫られるでしょう。本来、こういう事態を招くような、今回の検察審査会法には、私は疑問ですが、悪法も法ですから仕方ありません。

    ところで疑問がありますが、それで原告敗訴した場合、その責任は誰にあるのでしょう。検察審査会の審査員は、抽出された一般国民です。法律家でもない彼らに責任を負わせるわけにはゆきません。本来は3回目の判断は、国民審査で投票させて結論をだすべきくらいの重みがあると思います。敗訴によって法秩序が崩壊したとしても、それなら国民が敗れたのですから、まさに「一億総懺悔」でしょう。

    ところで、これが裁判員裁判だと面白い関係になりますね。裁判員は国民の代表ですから、上のような状況なら中立であるべき裁判員が、国民から督戦されている状態になります。さらに傍聴人も無言の圧力を加えるなかで、裁判官は法律のプロですから証拠に基づいて心証を形成するべきですが、それが曲げられる可能性はいくらでもあるでしょう。まさにこうなれば法治主義の崩壊になります。

    <「私の使命は政府から国家を守ることだ」>といっても、それを原告勝訴に導くことができなければ百害あって一理なしです。被告に正当性を与えるだけに終わるのではないでしょうか。

    叔父さんの息子様

    <私は多数が狂いだしたときにいかにして「歴史」や「伝統」を楯としつつ国民の良識を貫くか>
    何が良識であるか、何をもって判断するのでしょう。多数が狂うといっても、それが狂っているのか、そうではないのか、その判断基準がアプリオリに存在するのでしょうか。

    たとえば貴方一人が国民の良識が間違っていると主張したとして、貴方以外の国民全部が貴方の良識は違うと主張したらどうなるのでしょう。

    結局、権力を手中に治めなければ、良識そのものを定義できないでしょう。そしてその良識を守るのは、仕組みはどうであれ、最終的に暴力によって担保された権力でしかないのです。

    だからこそ、その暴力を独占する主権国家の存在が必要なのではありませんか。

  14. この件、私も色々と考えさせられました。ここで終了するのは正直勿体無く、多少不本意です。参加させて下さい。(SCさん、はじめまして。藤沢と申します。いつも興味深く拝見しております。宜しくお願いします)。

    一般論と、個別論である今回の小沢の件がクロスしている所もあると思いますが、思う所を記載します。
    1.「法律が裁けない正義」のケースは存在すると思うし、今回の件は普通の感情として十分それに該当しうる可能性を持っていると思われる。
    2.証拠に力が無い場合、仮に裁判まで行ったとしても結果は同じ無罪である事も十分考えられる。
    3.但し裁判であれば判決までの決定過程が分かる意味がある。
    4.起訴の権限が検察にしか無く、しかもそれについてチェックすら行う事が出来ないのであれば、犯罪者を取り逃がす恐れとて無いとは言えない。
    5.理屈の上では、裁判所には制定された法律について違憲等の判断を下す権利がある。
    6.そう考えれば、検察が今ある法の不備を主張すべく、勝負としては難しくとも裁判にてそれを明らかにするため起訴する意味も十分あると思われる。

    無罪の判決が出た場合は、やはり損害賠償の責務は発生するでしょう。その時は検察審査会自体の正当性を全体で議論する形になると思います。(まあでもそれを言うのであれば確率論の部分はあるにせよ有罪になった時、検察は責任を取れるのかという点も気にはなりますが・・・)。

    一般論としての正義とか良識については、SCさんの話にもかなりの理屈を感じています。「人に危害を加えてはいけません」等の日常生活における常識を否定している訳では当然無いでしょうし。ただこれとて極限状況においては正義とは言えないかもしれないですし。(別に戦争だけを想定している訳では無く、大事故や災害、先進医療、介護疲れ等による深刻なケースも現実にある訳で、決して他人事ではないと思っています。)
    厳密な意味では、正義とは大げさに言えば権力者の命懸けの独善だし、それを担保する意味での多数決というのは間違いではないと思います。勿論それが常識とか良心とか歴史とかと必ずしも矛盾するとも思えませんし。
    付け加えれば、「多数が正しいとは限らない」というのは上手く使う必要があると思っています。実感としては確かにそうですが何となく多数決の無理解に聞こえてしまう時が私にはあります。

    以上です。論点が多いので話がバラバラですみませんが、宜しくお願いします。それではまた。

  15. SC様
    確認しなければ反論も同意もできないので、質問を。
    アナロジーとしても、そもそも「被告は敵」は成立しますか。
    成立するとすれば、「推定無罪の原則」を認めないという立場ですか。
    私は、被告は「被告の時点では国家の敵ではない」との立場ですので、
    起訴しても、原告が負けてもまったく問題がない、
    起訴は法的には社会的制裁でもなんでもないとの立場です。
    さらに厳密には、有罪になっても「犯罪者」であって「敵」ではないと思います。

    「原告勝訴に導くことができなければ百害あって一理なしです」
    は、ドイツ流法治主義や戦前日本の行政法の「国家無答責」「官僚無謬」説と受け取りました。
    つまり、行政に誤りはないという前提の考え方ですね。
    一方で、「原告敗訴した場合、その責任は誰」は、
    行政にも誤りはあるという前提の考え方ではないでしょうか?
    整合する考え方があるのであれば、ご説明をお願いします。

    私の理解ですと、今のドイツや戦前日本の「国家無答責説」「行政無謬説」とは、
    人間だから誤りはあるが、そのことで個々の公務員に賠償などの責任は問われない。
    ついでに国家賠償の考え方は、個人の権利が侵害された時の賠償や補償は国家が政府を通して行う、です。

    議論の本質を確認します。
    私は「検察官は起訴して負けても構わない」で、SC様は「負けてはならない」が相違点だと思います。
    私は英(米」)法で、SC様は(ドイツ流)大陸法の違いだと解釈しています。

  16. 内容が難しい上に、毎日、睡魔との闘いではかどらず、随分と遅くなってしまったことをお詫びします。

    藤原様
    .<「法律が裁けない正義」のケースは存在>すると思います。それは刑事手続きの出番ではないということではないでしょうか。刑事司法においては罪刑法定主義や無罪推定など強制的な処置をなるべく限定しますから、このような場合は民事司法や行政的手段などによるべき問題になるでしょう。

    <証拠に力が無い場合、仮に裁判まで行ったとしても結果は同じ無罪である事も十分考えられる。>これは私も同意するところです。

    <.但し裁判であれば判決までの決定過程が分かる意味がある。>必ずしもそうとはいえません。特に無罪とは、有罪であることを否定する理由が見出せないということですから、この場合は単に証拠なしという決定過程しかわかりません。

    <起訴の権限が検察にしか無く、しかもそれについてチェックすら行う事が出来ないのであれば、犯罪者を取り逃がす恐れとて無いとは言えない。>もちろんあります。それが司法の限界です。司法警察作用とは行われた犯罪に対して刑罰を与えることが目的なのですから、犯罪が立証できない限り、それは任務外でしょう。むしろ犯罪防止などは行政警察作用で語られる問題です。

    <理屈の上では、裁判所には制定された法律について違憲等の判断を下す権利がある。>わが国の仕組みにおいては個別具体的な事件に関する法の適用についての違憲の判断を下す権利しかありません。一般的な法解釈において違憲審査をするような機能はありませんし、それを広く認めるならば立法権への介入の虞があります。

    <そう考えれば、検察が今ある法の不備を主張すべく、勝負としては難しくとも裁判にてそれを明らかにするため起訴する意味も十分あると思われる。>司法とは法に照らして判断するものであり、法の不備を直すのは立法権の役割です。検察が法の不備に言及するなら、その時点で司法からの逸脱です。もっとも日本の仕組みにおいては、検察が属する法務省として法案を提出することができますから、立法作用の中で論ずるものでしょう。

    <無罪の判決が出た場合は、やはり損害賠償の責務は発生するでしょう。>私の考え方は国家無問責の考え方にむしろ近いのですが、現在の日本の制度では国家賠償法の適用となるでしょうね。本来なら国家は法に基づいて、すなわち正義の制定者がみずから規定した正義に基づいて、被疑者を拘留するわけですから、国家が不正義になるわけがないので、賠償というのはおかしいのです。正当な行為による損害は補償であるべきです。しかし、国家賠償法という法律で国家に賠償を求めている以上、悪法も法と解釈せざるを得ません。

    <「人に危害を加えてはいけません」等の日常生活における常識を否定している訳では当然無いでしょうし。>いいえ、国家が法で否定した時点で、それ以前の常識は根拠性を失い、あくまで国家が規範を独占すると考えます。一つの領域を支配するためには、統一された規範が必要であり、各人の常識といったものでは、規範が分裂しますから統治に支障を生じます。

    <「多数が正しいとは限らない」というのは上手く使う必要があると思っています。>これは立法の問題ですね。どのような手続きであろうと、国家がその法律に従って適法に施行した法は、自ら廃止しない限り正しいことになります。

    倉山様
    おっしゃられることは、戦争(無差別戦争観)であれば善悪の関係ではないからアナロジーは当てはまらないという議論ですね。

    警察や検察にとって、その捜査においては彼ら(被疑者)の認識について、間違いなく「犯罪者」であろうと思います。戦争(正戦論)であれば同じことになりますけども、少なくとも主権国家の中においては絶対的な権力を有する国家機構に対し、「犯罪者」を対等な「敵」として扱うことはありえません。

    しかし司法の場においては、無罪推定法理の世界ですから検察も原告という、対等の立場におかれます。この時点においては犯罪者は被告であって、被疑者ではなくなります。つまり戦争(無差別戦争観)とのアナロジーが成り立つと考えられます。その際、検察にとって、被告は国家の法秩序に反した「被告の時点でも国家の敵」であるでしょう。なぜなら法廷において無罪を勝ち得たなら、その事件において被告は正義であったことになり、原告である検察は不正義であることになるからです。したがって検察が正義であることを証明しようとすれば、法廷で勝つ必要が生じます。

    被告無罪の判決を得たということは、検察の主張した法秩序の維持は否定されることになります。ちなみにこの点においては英(米)方のほうが影響は大きいでしょう。なぜなら判例法の世界だからです。少なくとも大陸法では、その事件に限られます。ただ大陸法であっても判例はその後の裁判に影響を与えるでしょう。

    <「起訴は法的には社会的制裁でもなんでもない」>というのはそのとおりです。むしろ日本国憲法では裁判を受ける「権利」でありますから、国家によるサービスです。

    <ドイツ流法治主義や戦前日本の行政法の「国家無答責」「官僚無謬」説と受け取りました。>これについては藤原様のところで説明したとおり、そのとおりです。

    国家賠償法についてもすでに上で触れたとおりです。賠償は不法行為や不当利得に対するものであり、国家無答責の考えのもとではありえません。補償というのは正当な行為であるが、損害を与えたので行うものですので矛盾しません。
    なお、国家賠償法の下で保護される公務員個人の責任は重過失がないことが要件で、重過失がある場合は国家がその公務員個人に対する求償権を有します。

    まとめますと、法廷は無差別戦争観的戦争と同様に、正義対正義と推定されていますが、判決により国家対犯罪者の関係になるか、国家が敗北して被告が無罪となるわけですから、国家が、その法秩序を維持しようとするならば法廷で勝たねばならないと考えます。

  17. SC様 他の皆様
    スミマセン、気付きませんでした。
    以降は5月29日のところにレスをお願いします。

    論点を絞ります。
    検察官が起訴し負けるとどうなるのか?
    正義が崩壊するから絶対勝てないなら起訴してはいけない、のか。
    別に負けても良いので起訴すれば良い、むしろしない方が怠慢、なのか。
    ですね。

    かなり認識を共有していますので評価が異なる一点のみを抽出して反論します。(こまかい法律論と事実認識は、異論があるところも捨象します)

    <検察にとって、被告は国家の法秩序に反した「被告の時点でも国家の敵」>
    「検察にとって」が肝ですね。正確に言うと「敵と推定される存在」ですね。しかし、司法権の仕事はその検察官(行政府)の思い込みが正当であるかの審査です。「思い込み」とあえて言い切るのは、そういう疑いの眼で見るのが推定無罪の原則だからです。
    検察が面子にかけて勝ちたいのは勝手ですが、検察は「国家」そのものではありません。政府の一行政機関にすぎません。

    当該小沢事件に戻しましょう。
    「小沢一郎の、子供のような秘書が4億円を裏金として、自分の裁量で処理しました。」
    信じられますか?
    疑いが濃いなら、負けても起訴すべきでしょう。別に検察の「勝率は100%でいたい」という小役人根性が傷つくだけで、正義は失われません。「裁判官が馬鹿」か、「法の不備=法の隙間を逃げられた」という結論が出るだけではないでしょうか?

    検察官が100%の勝率を求められる、検察官が負けたら正義の崩壊、などと考えているのは、独裁国でなければ、いまどき日本くらいでは?
    その証拠に勝率99%の日本の検察は世界から「精密機械」と言われています。ではなぜ外国は日本の真似をしないのでしょうか?というさらなる疑問が出てきます。これへの私なりの回答は持っているのですが、別の話になるのでやめますが。
    いずれにしても、諸外国が日本の起訴制度を真似していないという一時でもって、いまどき十九世紀ドイツ型の行政無謬説を信奉している日本の検察が異常な証拠だと思いますが。

    ※注意
    「異常」は必ずしも悪いこととは思いません。現に帝国憲法下の日本はそのように運用したので。しかし、いつ如何なる時も官僚は間違いをおかさない、犯してはならない、という思想の誤りは明らかだと思います。
    「検察官が誤りをしているのではないか?」の審査が司法権の役割ですから。

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