「派閥」の勉強は応仁の乱から

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 これでもかと憲政の常道に反する選挙が繰り広げられている民主党代表選挙。
 水曜日に『文春』と『新潮』の青木愛醜聞同時発覚を見るにつけ、戦前の二大政党が総裁選挙を一度もやらなかった理由がわかるような気がする今日この頃です。

 こういうことでもほめておきましょうか。。。経産相が迫ると言うのも何なのですが。野田財務相は何をしているのやらやら。

関係閣僚「カチン」、日銀総裁に集中砲火
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100910-OYT1T00897.htm

 民主より目も当てられないのが自民。
 もはや数学ではなく算数のレベル。

民主が財政再建掲げれば、協力の考え 自民・石原幹事長
http://www.asahi.com/politics/update/0910/TKY201009100508.html

 財政再建なんて、デフレ下でやったってうまくいかないですって。
 それとも単なる政局論?

 古いですが、(色んな意味で)殺されるかと思った記事がこれ。
http://blogs.yahoo.co.jp/iwamotoseminar/33921699.html

 東大経済学部の岩本教授って、何者ですか?(唖然)
 そんなに中央銀行が強いなら、デフレをマイルドインフレにして、ハイパーインフレにしないように調整すればよいだけでは?それともすべてのインフレはハイパーインフレとでも言いたいのだろうか。謎

 さて、本題。
 いろいろな人に「派閥」の話を聞かれるのですが、普通の日本人が真っ先に思い浮かべる自民党の派閥が、実は「党」なのが誤解の原因なので困りモノです。で、「日本人の派閥を理解するには応仁の乱に学ぶのが近道です」と答えるようにしています。

 教科書的な理解だと、
室町八代将軍足利義政の後継を巡り、三管領家筆頭細川勝元率いる東軍と、四職家筆頭山名宗全率いる西軍が、応仁元年(1467)から十一年間、京都を焼け野原にして戦った争い。守護大名家の家督争いと絡み、全国に拡大。
とかでしょうか。

 間違いではないのですが、知らない人が聞いたら何のことやらさっぱり理解できない内容です。受験生が必ず覚えさせられるのが以下の図式です。

東軍          西軍
足利義視(義政の弟)VS.足利義尚(義政の子)&日野富子(義政の妻)
細川勝元(婿)   VS.山名宗全(舅)
畠山政長(遠縁の子)VS.畠山義就(実子)
斯波義敏(近い養子)VS.斯波義廉(遠縁の養子)

 以上の図だけではわからない大事なことをあげると、
一、九代将軍は義尚に。
二、乱の結果は細川氏の一人勝ちで、山名氏(と斯波氏)の没落は目も当てられない。

 高校教科書どころか、用語集でもここで終了です。これではイデオロギー以前に、何が何やらわからないというのが本音では?私はそうでした。一と二の結論、矛盾するのですが、事実です。さすがに気持ち悪いので、解答を示しておくと、
開戦初頭で日野富子(&赤ん坊の義尚)が東軍に寝返った、です。
 だから一と二は矛盾しないのですが、これを抜かされて結論だけ示されると訳がわからなくなります。ついでに、東軍に居場所がなくなった義視は西軍に走ります。
 こんな大事な事実を抜かされて上の表を丸暗記なんかさせるから高校生が歴史嫌いになるのでは?
 ちなみに未だに私、斯波氏の義敏と義廉のどっちがどっちやら混乱します。←ちゃんとした理由があって、覚えても無意味なので。

 で、今日の本題の派閥の話に合わせてさらに以上の図だけではわからない大事なことをあげると、
三、細川勝元と山名宗全は長らく蜜月だった。
とかもあります。
 学校の授業だと「細川氏と山名氏の争い」と習うので、知らないと驚くかもしれませんが、婿と舅なくらいなので、元は仲がよいのです。まあ、細川君が自分に子供が生まれたので、山名サンからもらった養子を送り返した、とか感情のもつれも無いではないのですが。
 それでも、将軍側近官僚とか、先代畠山家当主の基国政権打倒のために共闘、とかもあります。また、将軍義政の勘気を蒙って国許に逃げ帰って蟄居している宗全のために勝元がとりなす、とかもあります。
 ではそこまで蜜月だった細川家と山名家はなぜ戦わねばならなかったか。
その原理は

敵の敵は味方!

です。

 この原理に従って、もう少し詳しい図式にしましょう。

東軍                西軍
足利義視(義政の弟)    VS.足利義尚(義政の子)&日野富子(義政の妻)
細川勝元(堺商人の利益代表)VS.大内政弘(博多商人の利益代表)・・・勘合貿易の利権争奪!
赤松政則(播磨を返せ!)  VS.山名宗全(やだよ!)
京極持清(羽振りの良い分家)VS.六角高頼(羽振りが悪い本家)
畠山政長(遠縁の子)    VS.畠山義就(実子)
斯波義敏(近い養子)    VS.斯波義廉(遠縁の養子、宗全の婿)
武田信賢(若狭守護)    VS.一色義直(丹後守護)・・・隣国で長年の宿敵。

 補足しとくと、細川&京極&畠山政長は幕府旧体制政治力重視派、山名&一色ついでに土岐成頼は実力重視武断派という気質の問題で盟友関係です。あと、細川勝元が赤松政則に、山名宗全が畠山義就にやたらと肩入れしていくので、自然と派閥が分かれた、という事情があります。一見複雑なようなのですが、「敵の敵は味方」の法則に従って事情を追いかければ理解できます。

 さらに、
四、細川氏の他に大内氏も対抗できるだけの勢力を保持しました。
というか、西軍必敗の形勢を、大内氏の状況で持ち直した、が本当のところなので。
 むしろ主役は山名氏より大内氏?ここ三十年くらいの日本政治は、米中代理戦争ですが、当時も国際政治と関係していました。ただし、昭和平成の日本と違い、室町の政治家は外国の走狗になどなりません。それどころか、寧波くんだりまで行って細川VS.大内の合戦が始まり、弱小国・明は茫然自失。。。つくづく、室町時代って同じ日本人とは思えない。

 いよいよ結論的な話ですが、
東軍・西軍の「軍」を、主流派・反主流派とか、親米派・親中派の「派」と置き換えてください。
 足利家(氏)とか何とか家の「家」は古風な日本語だと「党」と置き換えられます。
すると、自民党政治だと

主流派・田中党&大平党その他VS.反主流派・福田党&三木党その他、
中曽根党が反主流派から主流派に寝返った

とかいう表現になります。結束力の弱い党(家・派)からは裏切り者が出る、結束力が強い党(家・派)は強い。今も昔も同じです。

 応仁の乱の時代から、反対派への寝返りは日常茶飯事です。
 これが「家」だと、相当の覚悟がないと出て行けません。「党」も同じです。
 それでも御家の結束を保てたのが細川氏くらいで、あとは隙あらば分裂しますが。

 自民党の派閥はあれこそが「党」です。室町の「家」くらいは結束力があります。最近は下克上であやしくなりましたが。。。
 だから民主党のグループを自民党の感覚で「派閥ではないグループだ!」と呼ぶのが間違いで、むしろ民主党のグループこそ「派閥」です。

 まじめな話だと、以上のような「党」「派」を洗練して一枚岩にしたのが近代政党ですが、
未だにまともな近代政党が存在しないのが日本の不幸です。
「鉄の結束」は派閥の話、「鉄の規律」が政党の話です。

 ちなみに、応仁の乱を扱った唯一の大河ドラマが『花の乱』。
 わたくしが尊敬もうしあげる市川森一先生の脚本、遅れに遅れ、翌年のジェームス三木先生執筆の『吉宗』が追い越したとか。