亡国前夜(3)ー闇将軍と「憲政の常道」

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 「闇将軍」と言われた田中角栄の絶頂期は昭和五十五年七月の鈴木善幸政権成立から昭和六十年二月に脳梗塞で倒れるまでである。その権力はいかほどのモノであったか。

 数ある有力政治家を差し置いて、なぜ鈴木善幸が首相になれたか。

頭が悪くて無能だったからである。

??? これでは、さすがに意味不明であろう。もう一つ重要な理由がある。田中角栄への忠誠心が誰よりも高かったからである。つまり、頭が悪くて無能でも、田中角栄への忠誠心がある自民党代議士ならば総理大臣になれるかもしれない。むしろ頭が悪くて無能な方が都合が良い。そうなれば田中角栄への忠誠競争をはじめる。その競争に勝って、晴れて次の総理大臣になれたのが中曽根康弘である。おぞましい時代の到来である。

 どれくらい頭が悪かったか。世界中の新聞に「ZENKOU WHO?」の見出しが踊った。総理大臣になる覚悟も準備も全くなかった善幸さん、開口一番「私は財政や外交はわかりません。和の政治を目指します」と、聖徳太子が聞いたら卒倒するようなことを言い出した。総理になって最初の所信表明演説で、原稿用紙一枚分を読み飛ばして一言。「鈴木原稿、一枚減稿!」

 これ、私の作り話であって欲しい、と自分で書いてて思うが、当時のニュースになっていたことなので否定のしようがない。

 この時期の田中角栄、ロッキード事件の被告人で、自民党籍すらない、一無所属議員である。自分の裁判を有利に進める、ただそれだけのために自民党の中に田中派を扶植し、自分に都合が良い総理大臣を据え続けたのである。つまり、日本の統治機構のほとんどは一無所属代議士に支配されたのである。

 この時の自民党は反田中勢力が健在で、しばしば田中の権勢が揺るぎかけた。しかし、方法が悪かった。政争を挑むは良いが、常に「総理は田中の都合が良い人物で良いから、自民党総裁は寄越せ」と条件闘争をするのである。最近の「麻生おろし」でも唱えられた「総総分理論」である。こういう時の田中は決してぶれなかった。決まり文句は一つ。

「総理総裁の分離は、憲政の常道に反する!」と。この一言で、反田中派は沈黙させられるのである。そもそもの要求がお門違いだからである。自民党の総裁選挙で勝てるわけではなし、新党を作って第一党を目指すでもなし、確かに反田中派の行動は「憲政の常道」に反するのである。

 では田中は「憲政の常道」を守ったのか。確かに「憲政の常道」の原理に則ったから田中の主張は通っているのである。選挙で勝ったものがすべて、それが民主主義である。そういう意味で「憲政の常道」は田中の行動を正当化しているようである。

 しかし、「憲政の常道」が想定する総裁総理とは国民に選ばれた政治家である。国民に選ばれた与党第一党総裁だから、総理大臣の権力を行使できるのである。ところが、その総理総裁より強い政治家がいる。一無所属議員に総理大臣が言いなりになる、「憲政の常道」の想定外である。よって、与党の総裁選挙に出馬することなく、総理の首班指名選挙に出ることなく権力を行使する田中の存在そのものが、「憲政の常道」に反するのである。

 「闇将軍」とは、責任をとることなく権力を行使する政治家である。これは「憲政の常道」に反するのである。

 

 以下、他意のない独り言。田中さんの愛弟子である小沢一郎さん、「御輿は軽くてパーが良い」と漏らしたこともあるとか。海部俊樹さんのことであって鳩山由紀夫さんのことではないと祈る。

「亡国前夜(3)ー闇将軍と「憲政の常道」」への0件のフィードバック

  1. 質問をさせていただきます。
    やはりこのことが書かれると「二階堂擁立構想」を質問せずにはいられません。当時は中曽根内閣で鈴木内閣同様に田中によってつくられた政権と言われていました。
    この中曽根内閣に対して鈴木は、田中に反旗を翻し党内で福田派、河本派と、党外で公明党と民社党と手を組み田中派の大番頭たる二階堂進副総裁を総理総裁に祭り上げようとしましたが、なぜ鈴木たちは敵である田中派のそれも主要たる二階堂を祭り上げたのですか?
    それと同時になぜ田中は鈴木、中曽根と他派の人間を総理総裁にし自派から総理総裁を出さなかったのですか?

  2. 答一 二階堂擁立の理由。
    最大派閥田中派を分裂させるため。
    しかも長老の福田赳夫と同世代で、世代交代にならないから。つまり竹下登ら若手(ともはやいえなくなっていたため)の台頭に対抗するため。ちなみに福田と二階堂は、敵として対峙した鈴木後継問題での話し合いの際に、「この人はいい人だ」とお互いに意気投合したらしい。

    答二 なぜ他派閥から?
    自派閥から総理を出すと、派閥を乗っ取られる可能性があったから。少なくともその意思と能力がある竹下登だけは候補にできなかった。実は二階堂とか江崎真澄とか反逆能力の無い候補はいたが、その人たちに総理がつとまらずに不要な政変が起きても困るし、一度自派から認めて「では次は竹下さん」と言われるのが角栄にとって一番困る事態。
    よって、他派閥のなりたがっている人を総理にするのが一番都合が良い、が理由。もっと正確には、田中角栄にそれだけの力が無かった、が正確。

  3. >倉山先生
    質問に答えていただきありがとうございます。
    田中角栄にそれだけの力がなかったというのは竹下を抑えられないということよろしいでしょうか?
    それと田中はこの時点でもう総理総裁に戻る気はなかったという考えでよろしいでしょうか?

  4. 倉山さん

    こんばんは。藤沢秀行です。
    予想外の展開でした。今後ますます楽しみですwwwwwwwww。

    せっかくですので、本文に記載されていない事柄について言及させて頂きながら、お尋ねしたいと思います。

    本文を読みながら、この時代をざっと復習していました。
    この直前、所謂「ハプニング解散」があるのですよね。
    大平総理は選挙期間中に急死して、自民党は党内の対立がひとまず融和して
    選挙に勝利する。

    鈴木善幸は再選を目指さずに総裁選不出馬。中曽根内閣が成立。
    翌年の総選挙(通称「田中判決解散」)では自民党は単独過半数に届かず、
    新自由クラブとの連立を余儀なくされる・・・。

    結構混乱した時代ですよね。

    私からは、一般論としての所をお尋ねします。
    まあまあ、「憲政の常道」の急所に入ってくれればと期待を込めて・・・。

    自民党の場合、「総裁の任期が2年(3年)」という党則が内閣以上に大事だったりしますよね。
    小泉総理⇒安倍総理への継承に違和感を感じた国民は多いと思います。
    私もその一人です。

    この党則(自民党議員にとってはそれこそ習律にまで高められていると思われる)自体が、根本的に憲政の常道に反しているのではと思うのですがどうでしょうか?

    総裁に選ばれてすぐ解散するのであればこれでも良いのかもしれませんが、別に時の総裁が別に次の解散までずっと続けていても、というより続けるべきなのではとも思いますが、この意見はどうでしょうか?

    私は最近参加し始めた人間ですので、既に倉山さんからの言及がどこかでありましたらすみませんが、可能でしたら解説ください。

    次回は誰ですかね〜。楽しみにしています。
    それではまた、宜しくお願いします。

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