最近、日本国内の行く末が気になりすぎて、国際記事への関心が薄れてしまってよくないのだが、こういう記事を見ると、心の底から平和の尊さを痛感したくなる。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2653772/4772307
【10月17日 AFP】ソマリア反政府勢力シェバブ(Shebab)が、イスラム教の断食月「ラマダン(Ramadan)」の最中に行った団体戦クイズ大会の優勝者に授与した商品は、豪華客船の旅などではなく、「ジハード(聖戦)」へのチケットだった。
Abdullahi Alhaq氏は、16日夜の式典で「若者たちに武器が授与されたのは、現在アラーの敵との間に行われている聖戦に参加するよう勇気づけるためだ」と語った。
このクイズは、ソマリア南部のキスマユ(Kismayo)でシェバブが主催し、ラマダンの1か月の間ラジオで放送した。キスマユ周辺の5地区も参加し、科学や文化、聖典コーラン(Koran)についてのクイズに挑戦した。
優勝者はFarjano地区のチームで、AK-47自動小銃1丁、手投げ弾2発、対戦車地雷、それに事務用品の優勝賞品を手に入れた。
式典には住民が大勢あつまり、Abdullahi Alhaq氏が「優勝したチームは、1000ドル(約9万円)相当の武器と事務用品を獲得する」と伝えると、観衆からは歓声や拍手があがった。
キスマユで働くある男性は、AFPに対し、「知識を競い合った結果として、学生が武器を授与されるようなイベントを体験したのは初めてだったので素晴らしかった」と語った。
シェバブと地元イスラム勢力の連合は、1年以上前にソマリアの主要港キスマユを制圧。イスラム法(シャリア、Sharia)の厳格な適用を実施して、スポーツやDVD、洋服などを禁止している。
ちなみに準優勝者には、AK-47と弾薬が贈られた。(c)AFP
「憲法九条があるから日本は平和なのだ」などと狂信している人を抱える日本人は笑えまい。この人たち平和ボケ日本の対極にいる人たちなのだろうが、冷静なバランスを欠いているには違いないので。
しかしこの記事、完成度高いなあ。
海外のの話はぞっとすることがあります。
バルカン半島に関する倉山先生の話もそうでしたし。(出来れば倉山満の砦にも書いていただきたい)
サウジではそういやあ、あまりに豊か過ぎてやることがなく刺激がないというのが理由で若者が反米意識と相まって次々とイラクに聖戦しに行くなんてことがクローズアップ現代で取り上げられていたました。
サウジは極端すぎますが、お隣さんも反日の絵を書かせるなんて教育の実態やらシナに行くと潜在的自国領を教えているとか。
フツーの国は国旗に忠誠を誓わしたり義務としての国防は教育するんですね。
東亜情勢を考えるとこの記事が案外ギャグじゃない気がします。
日本人は平和ボケの末期症状な気がしてきました。
「反政府勢力」が「団体戦クイズ大会」とは、なんだかのんびりした話ですね(笑)
確かに血生臭い話にも聞こえるのですが、
「江戸時代の後期、儒学・蘭学・国学の大会が開かれて、優勝者は将軍から直々に日本刀を賜った」
と聞いても、血生臭い話には聞こえない。(もちろん上記は私の勝手な創作です。)
ともあれ、絶賛紛争中だから血生臭く聞こえるだけで、どこにでもある話ではないかと思います。武器をもらった人は平時にも人の鑑として振舞わねばならぬし、有事となれば人の先頭に立たねばならぬでしょう。共同体とはそういうもの。
平和は尊いと私も思いますけれども、この記事からはどちらかというと、そういう文化が残っていてうらやましいという印象のほうを強く受けました。
感想としては「到底常人の感覚とは思えない」です。
とても理性的とはいえません。
しかし、平和ボケの日本人はそれ以上に「到底常人の感覚とは思えない」です。
彼らと日本人の差はなんなのだろうと思います。
>新田さん
>とても理性的とはいえません。
そう断ずるのは早計かもしれない、と思ったりもするのです。
武器を授与するのに先立って知識を競い合わせたのは、武力に理性を持たせるための試みなのかもしれません。そうでないという証拠がない限りは、判断を保留したほうがよいのではないかと。
共同体から承認された理性ある武力は、共同体が秩序を保つための重要な土台の一つである。そして、秩序を保った共同体どうしの講和のみが、戦争・紛争のない状態をもたらしうる。私はそう思います。
そして戦後日本は、本当は「平和」ではなかったんだろうとも思います。「現状追認主義(=奴隷のメンタリティ)」の蔓延が、その決定的な証拠です。
日本が平和ボケだった、という意見に対しては、私はやや懐疑的な見方をしてるんですよ。
これは西尾幹二氏の説ですが、「中央アジアがひとつの勢力であり、その脅威に対抗するという形で西欧史と日本史が展開してきた」という考え方があります。
これがより明確になるのはモンゴル帝国の時代であり、モンゴル即ち中央アジア勢力に対抗するために西欧ではそれまでの個人戦主体の兵制が組織改変されてドイツ騎士団が編成され、やや遅れて日本でも同じように「やあやあ、我こそは」で知られる源平以来の兵制が改変され、鎌倉武士団が編成されています。
日本の場合、朝鮮半島と日本海があるために西欧よりやや遅れるという事情があるようです(これは産経新聞に連載されていた「古代からの伝言」にも書かれていました)。
これを現代、つまり20世紀後半から21世紀初頭について見ると、中央アジア勢力とはソ連=ロシア。これに対抗するために西欧ではNATOなりEC=EUが結成され、日本でも同じように日米同盟が締結され、自衛隊の防衛力が順次強化されて対抗してきた、つまり憲法9条のもと日本は戦争と無縁の平和な社会を築いてきたというのは全くの大嘘で、実際は西欧とともに軍事力を強化して中央アジア勢力に対抗してきた、というのが真相だったのではないか、とも思えるのです。
要するに、日本は決して平和ボケしていたのではなかった、ただその準備は不充分だった(例えば、現在の日米同盟に問題はあるが、それは日米同盟のあり方の問題であって、日米同盟それ自体は否定する理由がない、とか)、というのが私の見解です。
尤も、軍事について全くの無知と言える一般国民レベルや(これは第2代最高裁長官を務めた横田喜三郎東大教授の責任なのだが)、戦争や軍事と聞いただけで過剰反応を起こすマスコミレベルでの平和ボケがあることは否定するつもりはないです。「平和を知るためには、戦争とはどういうものか」という教育が必要なのだろうと思います。クラウゼヴィッツの戦争論も孫子の兵法も読んだことのない自称教育者が、批判能力のない子供たちに向かって「戦争は人殺しだ!」と教える(というより、刷り込む)ような教育現場のあり方は、直ちに改める必要があると感じます。