弔辞

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父の倉山幸治が、令和元年八月八日午前十時四十八分、永眠しました。享年、七十六歳でした。
生前、お世話になったすべての方々に、お礼を申し上げたいと思います。
葬儀、告別式は、家族と身内だけで済ませました。故人の遺志により、香典などは御辞退させていただきます。
父の自慢だった自宅に魂魄は戻りましたので、位牌の前でお会いしてくだされば、何よりの供養にございます。

父は二年半前、小細胞肺癌と診断されました。
最初は眼振がひどく、病名も特定できない状態でしたが、詳しく検査したところ、小細胞肺癌が見つかりました。煙草をやめて四十年も経つのに、残念ながら大病にかかってしまいました。小細胞肺癌は進行が早い癌で、いつ死んでもおかしくない病気です。既に手術ができない状態でした。私も告知を受けた時は、覚悟しました。
ところが、父は泰然としていました。その時、「七十五歳まで生きていられればいいだろう」と、つぶやいていました。父は常に、周囲には理解できない理屈でも、結論だけは正しい人でした。息子に説明してもわかるまいと思っていたのかもしれません。
かなり珍しい症例ということもあり、香川大学医学部附属病院で、あらゆる最新の医療を施していただき、癌を克服することができました。
しかし、リハビリに励んでいる時に、小細胞肺癌が再発してしまいました。
父は抗癌剤を使わない決意をし、京都のからすま和田クリニックの和田洋巳先生を頼り、再び闘病生活を送ることとなりました。おかげで、再発した癌も消滅させることができました。おいしいものが食べられないのは残念そうでしたけど、痛みで苦しむこともなく、元気にゴルフもできる体に戻りました。
ところが、先月から体調を崩し、七月二十九日から誤嚥性肺炎で香川労災病院に入院していました。
誤嚥性肺炎は普通の老人にも大変な病気ですが、二度の癌で痛めつけられた父の肺には、なおきつかったようです。
悲しみも深いのですが、それ以上に悔しい気持ちでいっぱいです。

父は、最期まで外科医として生きました。医者ですから、自分がどんな治療を受けているかわかっていたでしょうし、自分の胸に聴診器を当ててウンウンと頷いていました。何より、もはや自分が助かる方法がないことは、誰よりもわかっていました。
最後の二日間は、スヤスヤと眠っていました。
私も八月四日の終電で着の身着のまま、何も持たずに病院に駆けつけ、看病しました。その間、色々な思い出話を聞かせると、笑ったり、首を縦に振ったり、両手を合わせてくれたり・・・。生きている時は話すこともないと思っていても、もう二度と会えないと思うと、想い出というものは次々と蘇ってくるものです。

お別れに、母と三人で「故郷」を歌いました。父が一番好きだった歌です。声も出ないのに、しっかりと「兎追ひし~」と口は動いていました。
最期の瞬間は、家族や親しい人に囲まれながら看取られました。お別れする直前まで、みんなで語りかけていました。
私が何か言うたびに、微笑みを浮かべてくれたのが何よりです。 少しでも苦しみを和らげられたなら。

してあげたいことを、何もできなかったと言っても、全部できたと言っても嘘になりますが、死に目に会えない親不孝だけはせずに済みました。
今、この文章を父の遺骸の前で、父と話しながら書いています。