原作の風越信吾は三権分立について誤解している。だから、政治家に対する矩を超えてしまうのである。
115〜116頁を引用しよう。
官僚たちの多くは、内心では、大臣や代議士を軽蔑しているが、現実には、一歩も二歩もへり下って、奉仕する。代議士たちが資料を必要とするときなども、電話一本で、こちらで整え、お届けに上る。ただ、予算編成権を握る大蔵省だけが、わずかに例外で、代議士の方から出向いてくることが多い。風越は、その点では、大蔵官僚に負けなかった。どんな場合でも、絶対、自分の方から届けることはしないし、部下にも届けさせない。
「三権分立だ。なにも、おれたちは代議士の召使いじゃない。欲しけりゃ取りにくるようにいっておけ」
電話先の相手にもきこえよがしに、大声で部下を叱咤した。
城山が政治家に対して非礼な官僚を称揚しているのは前回の通りである。大臣は官僚にとって上司なのであるから、非礼な態度はそれだけで人事評価の減点対象である。
では城山によれば、政治家に非礼を働いてよいことの根拠である三権分立は、彼の解釈で正しいのであろうか。
ここで言う三権分立とは、立法府からの行政府の独立をさす。言い換えれば、国会議員が、官僚の仕事に無用の口出しをしてはならないという意味である。もちろん、実際に行政権力を国民に執行するのは個々の官僚・公務員であり、彼らの仕事が政治家の介入によって恣意的に捻じ曲げられてはいけない、という趣旨は当然である。いわゆる口利きなどによって行政の公正が保たれなかったりしてはならない。
国会はあくまで、?行政が権力を行使する根拠となる法律を作る、?税金の使い方を決めて監督する、?行政を監視する、のが仕事である。
ちなみに、?の「行政監視」の究極の形態が、「国会が大臣を選ぶ」であり、議院内閣制と呼ばれる。立憲政治・議会政治・民主政治、どう呼ぼうと構わないが、とにかく官僚は国民のよって送り込まれた大臣に忠誠を誓わねばならないのである。もちろん、忠誠に値する識見を有する大臣を送り込めるかどうかは政治家と国民の問題ではあるが。
政治家に資料を届ける、などは?の一形態なのである。国家機密や個人情報は別として、政治家が仕事をするのに必要な資料を速やかに整理して届ける、などはその分量が膨大にならない限り、官僚にとっても自分達の仕事を正確に理解してもらう機会であり、決してその行為自体に問題はなかろう。
そもそも、国会議員は選挙で選ばれた国民の代表である。どんなに愚劣な人物であっても。
しかるに、官僚は試験で選ばれた公務員にすぎない。どんなに立派な人物であっても。
風越信吾、大臣にこう言われたらどう答えるのだろう?
「あなたは何様ですか?試験に受かることは選挙に受かることより偉いのですか?」と。
なお、ここで大蔵省が引き合いに出されている。城山によれば大蔵省は別格だと扱われているが、では選挙民はこのように大蔵省の課長にひざを屈する代議士の姿を知ればどう思うであろうか。(つづく)