聖徳太子はいたかいなかったか?

LINEで送る
Pocket

 国士舘の講師控室で書いてます。おなじみ宮脇淳子先生が、『Will別冊 歴史通』No4に「淳子先生の歴史講座」を連載されていて、いつもコピー貰ってるのですけど、前回分に対する私のコメントが紹介されていました。私は隠れキャラとして登場(笑)。以下、102頁を引用。いわゆる「聖徳太子不在説」に関してです。

ところで、私がこんな講義をしていると聞いて、友人のなかには、左翼で天皇批判をしている、とんでもないグループと同一視される危険がある、と心配して、私に注意してくれる人がいました。

 友人とは私のことだそうです。左翼のとんでもないグループとは、大山誠一一派のことですね。ただ、宮脇先生に一言だけ事実誤認を指摘。

あいつらはただの変質者です。本物の左翼に失礼です!

 まあ大山一派のどこが変質的かと言えば、全部、としか言いようがないのですが、特に斉明天皇に対する記述など戦前なら間違いなく不敬罪でしょうね。あまりにも下品なので引用したくないです。悪趣味な方は御自分でどうぞご確認を。笑

 聖徳太子がいたかどうかはよく聞かれるのですが、史料が限られる古代史なので、全員が共有できる事実が極端に少ないのですね。「厩戸皇子が実在したとか」は誰もが共有できるのですが、では「十人の話を同時に聞けたのか、実は七人だったのか、そもそもそれが作り話だったのか」など、すべてが仮説だらけなので、どの部分を認めるか認めないかの方法論によって、当然結論が変わってくるのです。

 ただ巷で流行している聖徳太子不在論は、実在説を「完璧に立証はできない」と片っ端から否定しておきながら、「蘇我馬子は大王だったんじゃないか」とほとんど妄想に近い架空の歴史像を作り上げていくような、方法論の二重基準がひどいのですね。

 宮脇先生は、訳のわからない中傷を無視して、右にも左にも阿らずに「事実と特定できるものしか認めない」とのお立場で一貫されていますから、ただ「聖徳太子伝説のすべては事実と証明できない」の部分だけで「不在説」と同一視されたらあまりにもお可哀そうです、との意味です。

 しかし、東洋史の世界的権威の宮脇先生にこんな言い方をする私って。。。ちなみにP.C.の背中越しに宮脇先生に覗かれながら書いてます。笑

「聖徳太子はいたかいなかったか?」への12件のフィードバック

  1. 仮に聖徳太子がいなかったとして、日本が華夷秩序の呪縛から逃れていた事実について、彼らはどう説明しているのですか?

  2. 聖徳太子不在論(と僭称されているもの)は「実在論を神話とみなし、その否定の神話づくり」と見てますが、

    それにしても
    >史料が限られる古代史なので

    そしたら「資料」の多い現代史のほうが古代より圧倒的に「神話」が多いのは何なんでしょう。「史料」じゃないから?

    たとえば「南京」や「慰安婦」やら。これら何ですか?
    生き証人(とされる)人の話で、50年前の話が平成になってから「神話」になっちゃった。

    >ほとんど妄想に近い架空の歴史像
    >方法論の二重基準

    現代史の「神話」について偶然全部あてはまってない?
    左翼こそ神話作りが大得意!!

  3. 聖徳太子がもし空想の存在なら、なぜ多くの人々に知られているのでしょう。

    空想上の人物が大衆に知られるためには、何らかのお話が必要です。事実上の人物ですら、庶民が知るにいたる為には、歌舞伎などの演劇や講談などで演じられる必要があるでしょう。忠臣蔵の大石倉之助などが有名なのは、何度も演じられてきたからに違いありません。

    もし架空の人物を、有名にしようと企てれば、事実以上に演劇などが興行されなければならない筈です。

    私は詳しくはありませんが、聖徳太子が主人公になるような演劇を聞いたことがありません。聖徳太子が生存していた時代にはテレビはもちろん、印刷術すらなく、書物はすべて手写しでした。

    聖徳太子を殊更宣伝するような、企てはなかったのではないでしょうか。要するに架空の人物をでっち上げるのなら、必ずや何らかの演劇などが行われなければ意味がないわけですから、むしろ聖徳太子は実在したと考えるべきだと私は思います。

  4. 事実を事実として見る態度は必要だと思います。

    否定しておきながら架空の像を作り上げるのはしばしばですね。

    記紀は全く信用できないと否定しておきながら中国の歴史書は”事実”と崇拝する態度は問題があると思います。

    事実を否定しておきながら新しい神話を作り出しているんですよね。

  5. >通りすがりさん
    華夷秩序から脱するなど、『日本書紀』ナショナリズムの妄想だそうです。
    野蛮な日本人が中華様や朝鮮様にたてつくなど百年千年早い、だそうです。

    >大陸浪人さん
    近代史の毒が中世史、ついでとうとう古代史にまでまわったというのが正確かと。問題は左翼がやっているのではなく、サヨクにもなれない変質者がやっていることです。彼らは大学教員とか研究者を名乗る。から恥ずかしくて仕方がない。

    >SCさん
    すべて『日本書紀』以降のプロパガンダだそうです。

    本当に彼の一派の学説(と呼ぶのもおこがましい妄想)は、これ以上は上品に要約できないのです。
    さすがに宮脇先生と一緒にしたらまずいでしょう。宮脇先生は実証主義の立場で「わからないものはわからない」と言っているだけですから。

  6. 皇室の名宝展に、聖徳太子が幼少のみぎりに遊んだという伝説のあるものが出展されていましたが、どう見ても後世のものでしたし、十七条の憲法も原本がない以上後世の作の疑いを排除できません。
    おそらく厩戸皇子という極めて有能な皇族がおり、のちに蘇我氏によって子孫が死に追いやられたという薄幸の一族を、後世の朝廷が権威付けのためにいくつかの事実を元に聖徳太子伝説を作りあげたのでしょう。またそれを受け入れるだけの土壌、すなわち生前の実績もあったんだと思います。

    えてしてこの手の議論は言葉遊びに陥ることが多く、何のための議論なのかよく分からなくなることが多いと思います。

    どうでもいい話ですが、最高額面の紙幣は聖徳太子である方が良いと思うのは私だけでしょうか。

  7. 日本書紀がただのプロパガンダだとすれば、なぜ25代武烈天皇についてあそこまでクソミソに書くのか、明らかに不利な内容を記述することにプロパガンダとしての意味があるのか、という反論ができますね。他にも、17代履中天皇の懐疑主義や18代反正天皇の姦計、20代安康天皇の暗愚ぶりは、プロパガンダとしての意味を成さないことになります。

    そもそもプロパガンダとしての意味を持たせるためには、日本書紀が一般民衆にも広く読まれることを前提としなければならない筈ですが、この時代の一般民衆の中に文字を読めるほどの学識のある人がどれほど居ただろうかと考えると、無理のある学説です。これは私の仮説ですが、日本書紀が一般民衆にも読まれるようになったのは、寺子屋が普及して国民の識字率が向上し、加えて印刷技術が向上して出版物の価格が値下がりした時代、つまりどんなに古く見積もっても江戸時代以降ではないかと思います。とすると、日本書紀編纂時点において日本書紀をプロパガンダとして使おうという意図は存在するはずがなかった、と考えるべきでしょう。
    聖徳太子については儒教、仏教、道教いずれの観点から見ても聖君子としての人間像が形成されるなど、美化されすぎているきらいはあると思いますが、少なくともこれらの元となった事跡はあったと考えるのが自然ではないでしょうか。

    >仙台竜三様
    聖徳太子が「お札の顔」から降板したのは昭和59年ですが、その翌年にはバブルが始まり、今日に続く経済の混乱の時代に突入しています。まぁ、さすがにこれが慶応創設者の責任だとは言えないでしょうけどね^^;

  8. 1万円札は推古天皇か持統天皇がいいな…
    僕は女の子に人気があるので、一葉ちゃんとか紫ちゃんとかが集まってきます(笑)。
    聖徳太子は推古天皇の息子で男子一系の天皇家では跡継ぎになれません(TT)。
    日本書紀は明らかに「歴史書」として書かれていますが、どうしても神格化、大風呂敷な表現は出てきてしまいます。
    「11人の要望を満たすような解決策を作った。」ということが、「11人の声が同時に聞けた。」となってしまっても許される脚色の範囲だけどなあ、、、
    優秀な叔父、本家から妬疎されるというのは、あったのかな(?僕の想像)!

  9. >NAO様
    聖徳太子は用明天皇の皇子なので男系限定の立場に立っても有資格者ですよ。実際、少なくとも皇太子にはなっています(だからこそ「太子」なのです)。
    ただ、聖徳太子の事跡や政治的態度を観察すると、どうも意図的に天皇に即位しなかったのではないか、と思えるのですが…

  10. 「聖徳太子って、何かい大工の棟梁だったって話じゃないかい!?」
    「えー、それは初耳だなぁ…」
    「なんでも法隆寺っていう、えらい高い建物作ったんだって、、、」
    「その法隆寺って、富士山より高いのかいっ?」
    「おいっ、そこまでは高くないけど、浅草寺の仏塔より高いっていう話だよ。他にもすごい大伽藍を作ったのが、聖徳太子様と聞くじゃないか。」
    「えーっ、それは大そうな大工の棟梁だねぇ、、、」
    「だから、聖徳太子様は大工の棟梁の中でも棟梁って話だよ!」
    (浪曲「千人坊主」より)

  11. 聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
    すべて たった一人の人物です
    【古代史は石渡信一郎から始まる】
    と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

    『大和民族大移動』
    *日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

    失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
    実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
    昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
    でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
    簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
    おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
    明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

    書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
    太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
    そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
    これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
    もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

    では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
     ?実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
     ?貴重な金石文を正確に読みましょう。
     ?地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
    この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

    石渡信一郎は、まず先に、上記???を 徹底的に、探究しました。 
    ?古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
     (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
     例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
      及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
    ?七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
     (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
    ?地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
     韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
    大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
    南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
    東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
    大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
    大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
    大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
    昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
      
    今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
    通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
    即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
    さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

    その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
    その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
    獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
    その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
    とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
    石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

    しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
    の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
    で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
    の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
    通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

    なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
    通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
    辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
    ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
    おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
    書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

    結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
    4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
    これは寒かった弥生後期5期が260年〜340年頃でも裏付けれます。
    『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
    との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
    これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

    では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
    ?草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
    ?発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
    ?稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
    ?少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

    石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
    典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
    で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
    さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
    その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
    これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

    古墳−−−−−−年代−−−−被葬者
    ?箸墓−−−−−385年頃−倭王旨(七支刀)   
    ?渋谷向山古墳−410年頃
    ?行燈山古墳−−430年頃−倭王讃(宋書)
    ?五社神古墳−−440年頃−倭国王珍(宋書)
    ?中ツ山古墳−−450年頃−倭国王済(宋書)
    ?石津山古墳−−475年頃−倭国王興(宋書)
    ?誉田山古墳−−510年頃−倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
    ?大仙古墳−−−520年頃−男弟王(隅田鏡)
    ?見瀬丸山古墳−570年頃−獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
    ?太子西山古墳−585年頃
    ?石舞台古墳−−620年頃−阿毎多利思比孤(隋書)
    ?天武陵(旧)−645年頃−ワカミタフリ(隋書)
    ?持統陵(旧)−645年頃

    で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
    このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
    コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
    こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

    古墳−−−被葬年−本名−書紀の中の名前【家系図】
    ?箸墓−−−393−旨−ミマキイリヒコ【初代】
    ?渋谷向山−409−?−イクメイリヒコ【?の子】
    ?行燈山−−438−讃−イニシキイリイコ【?の子】
    ?五社神−−442−珍−ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【?の弟】
    ?中ツ山−−462−済−ホムタノマワカ&尾張連草香【?の孫】
    ?石津山−−477−興−カワマタナカツヒコ&凡連【?の子】
    ?誉田山−−507−武・日十・余昆−昆支&ホムタワケ【?の子の婿】
    ?大仙−−−531−男弟−ヲホト&オホサザキ【?の子の婿。?の弟】
    ?見瀬丸山−571−ワカタケル−アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【?の子】
    ?太子西山−585−?−ヌナクラノフトタマシキ【?の子】
    ?石舞台−−622−アメノタリシホコ−タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【?の子】
    ?旧天武陵−645−ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【?の子】
    ?旧持統陵−645−?−蘇我入鹿【?の子】

    大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
    まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
    1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
    で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
    書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
    というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

    しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
    大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
    新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
    さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
    ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

    隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
    見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
    じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
    ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

    まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

    石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
    ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

    石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
    ・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
    ・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
    ・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
    すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

    見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
    書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
    書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
    石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
    『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
    これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

    私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
    石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
    副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』

    で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
    すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

    とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
    『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

  12. ずいぶん詳細な分析をなさっておられますね。
    古代史の多くは謎で、いくら資料を分析しても、これが真実の歴史だ!とは、なかなか断じにくいものです。
    以下も、トンでもはっぷんかもしれませんが、「いろんなアプローチの仕方がある」
    という意味で、紹介したいと思います。

    司馬遼太郎さんが産經新聞の記者をなさっていたときに、編集長だった富マサオさんは、代々、
    口伝で古代史を伝えられている、と紹介なさった司馬さんのエッセイを読んだ事があります。
    印象として、司馬さんはそれを否定しているようには思えない、曖昧な表現をなさっていました。(良心ある歴史小説家としての節度だった?)
    その口伝の一部を紹介した本があります。
    「謎の出雲帝国」徳間書店
    口伝だから、学術的には取り上げられないらしいけれど、口伝=嘘、とは言えない。
    意図をもって書かれたものは信用出来ないが、一子相伝の口伝だからこそ、信じるに足る、という考え方もある。
    その口伝によれば、日本人の起源は、大陸と言っても半島からではからではないようですよ。
    継体天皇も、半島人ではありません。あくまで、富氏の口伝では、ですが。

    どのような仮説も、想像も、幅広くあり、なのが古代史でしょうね。
    だから面白いし、興味もわきます。

    しかし、ここのページですでに聖徳太子の紙幣について、語られていたのですね。
    知らなかった・・・
    聖徳太子、もう一度、おさつで復活して下さらないかな〜。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA