華夷秩序とローマ万民法

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 相当、実証主義的で定評のある中国史家でも勘違いしていることがある。「欧米に国際法があるならば、アジアには華夷秩序がある」との言説である。華夷秩序などを「東アジア共同体」などと意味不明な団体の根拠にされては困るのである。

 国際法は、刑法のような裁判所や警察に強制されるような強制法ではないものの、法ではある。解決は、当事者間の決闘(これを戦争と呼ぶ)による、との合意がある時点で、国際社会の法である。最初は、欧州公法と呼ばれ、欧州各国共通の法として認識されていた。そして、世界中に拡大した。歴史的に平和に慣れた日本人には色々野蛮な点も多いが、何だかんだと洗練されて今に至っている。

 ローマ時代においては、万民法が存在した。ローマは多くの他民族を征服したが、彼らの習俗や法を尊重する姿勢を示した。緩やかな他民族の統合である。しかし、それら各民族の法の上位に万民法が存在し、帝国政府の責任においてすべての民族に適用される強制法であった。

 では、華夷秩序はどうか。確かに中華宮廷では皇帝の求める序列が絶対であった。もちろん、中華である皇帝が最高の地位であり、周辺諸民族は夷(野蛮)の地位しか与えられない。華と夷の関係には、強制力が働く。ただし、皇帝の実力が及ぶ範囲内だけである。夷と蔑まれた周辺諸民族は、自国に帰れば何の強制も受けない。単に朝貢だの冊封だのなど、中華皇帝が喜ぶ儀礼の見返りとしての経済的利益を蒙るだけである。ついでに言うと、重臣たちは朝貢国を増やして己の権力を誇示して宮廷での権力闘争に勝ち抜くために、わざわざ周辺諸国に頭を下げて朝貢をしてもらう、などということもあった。別に、中華帝国が東アジアで最強の国であり続けた訳ではないし、決して文化の中心とも限らない。少なくともいまだに命令と法律の区別がつかない国にまともな法文化など育つはずがなかろう。

 何より、周辺諸民族どうしは別に中華宮廷での序列を本気で信じていないのである。まともにそんな序列を信じている国は朝鮮くらいである。例えば、清朝は大英帝国以下来航する欧州各国に朝貢の儀を強要したが、では英仏関係は大清皇帝に決めてもらったのか。まったく無関係に戦争をしたり和睦をしているのである。これをアジアに限定して、日本とベトナムでも良い。ほぼ無関係に暮らしているではないか。

 少なくとも、華夷秩序は、夷と夷の関係を拘束する法になれていない。せいぜい、華と夷を拘束する外交儀礼にすぎない。ローマの万民法にはるかに劣っているのである。

 鳩山首相、「東アジア共同体」にアメリカ合衆国をいれようと発言したとか。いつからアメリカはアジアになったのだ?

「華夷秩序とローマ万民法」への0件のフィードバック

  1. 中世まで、小麦は1粒から3粒、米は1粒が10粒!
    生産性の違いから貧しいヨーロッパと豊かなアジアということになる。
    収奪と奴隷獲得の戦争でしかなかったローマ帝国と、地域が自給自足していたアジアで地域が連合していくプロセスとしての戦争との違いで、文明化(法治制度)が進んだのは、結局、ヨーロッパだったんだろう?
    アメリカはヨーロッパ人が多い国だが、土地は意外と肥沃で南北戦争はアジア的なステートが連合していくプロセスだったという面もある…
    「銃があって、自分の身は自分で守る。」
    開拓時代の「ステート」という< 新しい国>の概念は、< ヨーロッパの古い王侯貴族がいた国>から較べた話であり、むしろ、昔の< アジアの国>の概念に近いのかなあ?(アフリカは弱肉強食)!

  2. 基本的な事柄ですが、質問があります。
    今回のお話に出てくる「国家」と「民族」は同義でよろしいのでしょうか?
    私の拙い知識では、当時の東アジアには重臣が手柄の奪い合いをするほど「国家」が沢山あったとは思えないのですが…。

  3. 「華夷思想」は存在したし今もそういう思想を持っている人はいるかもしれません。しかし「華夷秩序」と呼ばれるにふさわしい何事かなど、この世に存在した試しはないのです。
    「華夷思想」がいつの間にか「華夷秩序」と呼び変えられすりかえられる。
    「大和朝廷」がいつの間にか「大和王権」と呼び変えられすりかえられる。
    これは一体誰の策謀なんでしょう? ぶっ殺してやるから出てきやがれって感じです。

  4. >NAOさん
    >開拓時代の「ステート」という< 新しい国>の概念は、< ヨーロッパの古い王侯貴族がいた国>から較べた話であり、むしろ、昔の< アジアの国>の概念に近いのかなあ?

    < アジアの国>といっても、大陸アジアと海洋アジアと日本では全然違うので一括りにはできません。
    が、アメリカと日本は元来よく似た面があるのだろうと思います。日本がアジアの辺境の島国であるならば、アメリカはヨーロッパの辺境の島国と言えましょう。アメリカの国土は島国と呼ぶには大きすぎますけどね。
    君主制と共和制の違いはありますが、日本の保守思想もアメリカの保守思想にも、ゴタゴタしがちなユーラシア大陸との間には一線引いて、こっちはこっちでやっていきたいという考えが強いです。

    >瀛さん
    そこで「国家」と言うからいけないのですよ。倉山さんも本文で「国家」という言葉は使っておられませんね。
    日本語で言う「国家」に該当するものは、日本国の他には存在しないんだ、と思っておくくらいでいいのだろうと思います(アメリカだけは該当するかどうか微妙なところ、か)。
    漢字の「国」「國」は、「武装した村」というような意味です。そのようなものとしてお考えになるとよろしいのではないでしょうか。

  5. 倉山さん

    こんばんは。藤沢秀行です。
    ここ数日レスが過疎ってますが今日の話、案外人気ある(出る)かも知れませんね。

    バラバラの話ですみませんが、もしご存知でしたら教えてください。
    (dodoさん。ご無沙汰しております。この間は色々と有難うございました。
    久しぶりに同じ所で会いましたね。dodoさんこういう話に強そうですので、
    もしご存知でしたら教えてください)

    彼ら(奴ら)の当時の外交儀礼として、「三跪九叩頭の礼」というのがありますよね。このくだりを読んで、ホントしょうもない所で想像力豊かな人達だと思ってしまいます。
    (よくこういう事を思いつきますよね)

    副島種臣が明治6年に台湾出兵の処理交渉のため清の同治帝に謁見した際、
    三跪九叩頭の礼を要求されるが古典を引用して立礼を主張してこれを通した。
    という話があります。

    何を引用したのか、そこには書いてないのですよね。どうやって切り返したんでしょうかね?
    調べてみてもすぐには見つかりませんでしたので、もしご存知の方がいたら教えてください。

    副島種臣の総合的な評価については私は不明ですが、ここだけを見れば
    「エライ!素晴らしい!よくやった!」という感じですよね。

    自己中心的な質問ですみませんが、なんか気になるのですよね。
    どなたか宜しくお願い致します。

  6. 国際法は、ヨーロッパで守らなければならないもの。華夷秩序は中国と外交関係がある国が見返りのために守る礼儀作法。中国と朝貢をする国の1対1のみで、朝貢をする国同士は華夷秩序には一切影響されないし、守るべきルールも存在しない。だから、英仏間で戦争が起きた。
    鳩山首相はそんな華夷秩序を東アジア共同体で作ろうというのでしょうか?それに、アメリカが東アジア共同体に入ったらアメリカも夷になるんですかね?アメリカ帝国様が他国の下、しかも、隷属関係につくなんて考えられないですが

  7. >dodoさん
    僕は「国家」と「国」と違う意味で使っています。
    国家が成立する過程で、複数の小国が存在する状態が存在します。
    日本では邪馬台国から大和朝廷が成立する過程です。
    魏志倭人伝では邪馬台国はいくつかの小国の連合国家であったとされています。(その東に、また別の国が千ぐらいあった。)
    国家の成立によって、国家の基本的な土台が決まってきます。
    僕は大和朝廷の成立とアメリカの合衆国の成立プロセスを比類しています。
    中国を含め、アジアの多くの国家も同様な複数の国のほぼ対等な相互作用と連盟により成立していったため、それがアジアの国家の基本的な特徴となっている気がしています。
    本題とはずれてしまっていますが、「アジアの国家」をどう捉えるかによって
    、「アメリカはアジアである」というパラドックスを論ぜないかなあと・・・

  8. >藤沢さん
    こちらこそいろいろ勉強させていただいています。
    副島種臣が何を引用したのかまでは私も存じませんでした。検索してみても、これというのがなかなか出てきませんね。
    渡邊毅著『愛国心の教科書 誇り高く生きるための五十の話』の227ページが一番ましでしょうか。それでも具体的な引用元は「『尚書』など」としかありませんが。
    URLがとんでもなく長いので、コピペはしないでおきます。グーグルのブック検索で見られます。

    >NAOさん
    >魏志倭人伝では邪馬台国はいくつかの小国の連合国家であったとされています

    何をもって「連合国家」とおっしゃっているのかよくわかりません。「国家連合」という言葉はありますが、「連合国家」という言葉はありません。
    もし、「邪馬台国はいくつかの小国の国家連合」だとおっしゃっているのだとしても、魏志倭人伝にはそんなことは書いてありません。
    あちこちの「国」には世襲の王がいて、みな邪馬台国の女王に属している、とかいうことが書いてあるだけです。そしてその場合の「国」とは「武装した村」のことです。「国家」のことではありません。
    今の日本のようにどこまで行っても道路や家や田畑が続いているような時代ではありませんので、当然ながら集落は飛び飛びに存在することになります。その一つ一つが「国」です。
    それらがみな邪馬台国の女王に属していたというのだから、それで一つの「国家」と見るべきでしょう。どこに「連合」的な要素が書かれているというのですか。
    「国家」と「国」は全然違うんだ、というのは、一つはこういうことです。

    日本列島は、人の足とちょっとした船さえあれば、割と簡単に縦断できてしまいます。我々の祖先は、移動したり定住したりしながら、縄文時代でさえ盛んに交易を行っていました。
    縄文式にせよ弥生式にせよ、同じタイプの土器が全国から広く出土していますね。建築法も水田稲作も弥生式土器も古墳も、普及し始まるとあっという間に、全土がほぼ同じ様式で染まるんです。
    思えば、明治時代の変革も、そのようなものでしたね。

    どうしてこういうことが起こりうるのか、ということですよ。
    「邪馬台国から大和朝廷が成立」したと考えるよりも、「日本の国家と朝廷はもっと昔からあったのだ」と考えるほうが、どう考えても自然です。

    まあ、そもそも「魏志倭人伝(三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人)」は、あちこちで読みかじったり聞きかじったりしたのをまとめたものなんですよね。
    正しい話も間違った話も、古い話も新しい話もごちゃまぜ。史料としての信頼性は低いと言わざるを得ない代物です。
    それでも「邪馬台国」が昔の日本のことを指すのであれば、その読み方はやっぱり、「やまとのくに」でしょう。「台与」は「とよ」と読むのですから。

  9. >藤沢秀行様
    ウィキの「三跪九叩頭の礼」の項目では、こんな一文があります。
    「1873年、台湾出兵の処理に赴いた特命全権大使副島種臣は、同治帝に謁見した際に三跪九叩頭の礼を要求されるが、古典を引用して立礼を主張し、最終的に立礼で通した。」
    ここにいう「古典」が何のことかは分かりませんが、私が以前聞いた話では、天武天皇の時代に「旧来の礼法を廃し、中国に習い立礼に統一せよ」という勅命が下されたことがあるそうです。ということは、おそらく唐の時代あたりは、まだ立礼が一般的だったのではないでしょうか。
    そうすると、副島翁としては「もともと立礼はあんたらが始めたものじゃないか!」という気持ちがあったのかも知れません。

    余談ですが、英国の特命全権大使マカートニーは「自国の王にすらしないような礼法に従えるか!」と猛抗議し、膝を突いて片手にキスするという英国風の礼法を通したそうです。なお、この後同じく大使となったアマーストは、同様の主張をしたところ面会すら許可されず追い返されたと、高2のころ世界史の先生に聞いたことがあります。

    考えてみれば、特命全権大使とは政府の代表、つまり国家元首の代理人。そんな人が皇帝に「三跪九叩頭の礼」をするということは、国家が臣下の礼を取ることと同じなので、こういう人たちは自国の尊厳を守るために命を賭けたということでしょうね。阿南惟茂あたりはこういう立派な人たちを見てどう思うでしょうか。

  10. 〈訂正〉×連合国家→○連合国
    国家とは常時、他国からの侵略にあわない状態・・・
    中国は、台湾問題とかあるし、「まだ国家が成立していく過程の途中の国」なのかもしれません。
    漢族だけで独立して「中漢民国」にするか、新しい政治手法の革新があって、統一されるか、中国が国家として成立するのは22世紀ぐらいになるかもしれないなあ…

  11. >NAOさん

    連合国家を連合国と言い換えても同じことですよ。どこに「連合」の要素があるのかという話なのですから。
    連合国と言えばUnited Nationsですが、古き日本はこれに近い何かであり、邪馬台国の女王は盟主もしくは今の国連総長のようなものだったとでも?

    魏志倭人伝には、「世有王皆統属女王國 郡使往来常所駐」とあります。「属」という漢字が使われている事実がある一方、「連合」を想起させる記述は一切ありません。「国」という漢字を「武装した村」あるいは「単に領域を示す語」と正しく読めさえすれば、ですけれど。
    無論、「連合」でなかったとあえて書いてあるわけではありません(「連合」だったと読む人がいるだろうという予測がなければ、あえて書く理由がありません)。また、そもそも信頼性の低い史料です。しかしともかく、そこからさらに誤解・曲解してあることないこと言ってしまうと収拾がつかなくなることも、言うまでもありません。

    二点目ですが、「常時、他国からの侵略にあわない状態」、もっと厳密に言うと「侵略に抵抗し続ける力を有すること」は、国家の性質であり国家の存立条件です。国家の定義ではありません。
    また、その性質は、今比較対照としている「国(=武装した村)」でさえ持つことがあります。

    大上段に振りかぶって定義しようとすると、簡単に見誤ります。
    言葉は元来、コスモポリタンでもアナーキストでもありません。世界中の「通常、『国家』と呼ばれているもの」の共通点を見つけ出して、国家とはああいうものだこういうものだと言ってみたところで、「日本語の『国家』」を定義したことにはなりえない。言葉とはそういうものです。

    「日本語の『国家』」への意識がないまま国家について語るとき、その言葉はいいときでも、コスモポリタン・アナーキスト・反日分子・非国民の類の言葉を超えられません。
    「日本語の『国家』」への意識がないまま日本のために行動するとき、その行動はいいときでも、コスモポリタン・アナーキスト・反日分子・非国民の類の行動を超えられません。
    これらは論理的帰結で、必然です。

    怖いことだと思っています。

  12. 国家とは「国+家」ということであって、長い言葉で定義しようとすればできなくありませんが、定義する必要もないと思っています。
    昔の家(僕ん家@都内)も当たり前のように昼間に鍵をかけずに生活していましたが、最近は昼間に人がいても鍵をしないで生活することは考えられなくなりました。
    「家」として、「侵入に曝されない」ということであって、「それを防ぐために家に鍵をする必要があるのか」ということと、「国家」も同様の意味と思っています。
    日本はたまたま四方を海に囲まれていて、緩い鍵でも守ることができたということです(船や飛行機が発達すれば、海という障壁が高い防御ではなくなります)。
    (最近、泥棒にあって僕ん家もセコムに入りましたが、)外敵の侵入状況によってはより高度な防御力が必要になります。
    穏やかな田園や外交がうまく行っている国で、外敵の侵入が予想されない状況では、鍵も国防力も緩いもので済みます。
    そういう相対的な外敵状況も「家」として成立するか大切なことで、まずは近所付き合いや外交をうまくやるということが、大切なことだと考えます。

  13. dodoさん 叔父さんの息子さん

    こんばんは。藤沢秀行です。
    真夜中の時間帯にも拘らず対応頂きまして有難うございます。
    よく分かりました。

    副島種臣自身、交渉に臨むにあたって跪礼を求められた時に、こう言おうと最初から予想していたと見る方が妥当な感じですよね。
    (もしこれで決裂したらどうするつもりだったのでしょうね?というより、最初からその場合まで読んでいないとおそらくこういう対応は取れないと思いますよね)

    この話のもう一つのポイントは彼自身が尚書を読み込んでいたという事ですよね。それもこの場の為だけというのではなく自身の教養全体の一部として持っていたという事だと思います。

    そして当然忘れてはならないのが、主権国家の代表としての誇りと尊厳を持って事に当たる姿勢と人間性だと思います。

    正直、私も今回改めてこの人の事について復習したのですが、他にもマリア・ルス号事件への見事な対応など、明治初期の状況を考えればかなりの人物と言って良いと思います。
    (今の外務省の人はこの人の事を見てどう思うのだろうか?)

    これまでの私の勉強の仕方が悪かったのか、というより何故これほどの話を教科書に特筆大書して学校の授業でやらないのかと思います。

    完成度の高い人格と教養が未知の状況に対しての対応力を生み、
    試験のために覚えた知識は身についていないから咄嗟の時に対応が効かない。

    今回の話、その事を改めて思いました。
    やはり日頃からの勉強と人間関係が大切ですね。

    有難うございました。また宜しくお願いします。

  14. >NAOさん
    繰り返しになりますが、「守り堅いよ!」というのは「国家」の「国」の字義です。NAOさんのお宅の防犯体制なんて関係ありませんよ。
    それから、「日本はたまたま四方を海に囲まれていて、緩い鍵でも守ることができた」とはまたまた大嘘をついたものですね。大宰府とか防人とかいう言葉を聞いたことはありませんか? 海は古くから、侵攻路・被侵攻路でありました。日本人はずっと、神経も労力も使って海岸防備も諜報も外交もし続けてきたし、必要があれば出兵もしてきたのですがね。

    >藤沢さん
    副島種臣については私もほとんど知りませんでしたので、簡単にですが調べてみて、勉強になりました。

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