予告です。倉山塾限定で企業秘密を公開します。
最近の我が国の情勢を見るにつけ、最も必要なことを発見しました。
目の肥えた読者層の開拓
です。
療養中に考えたことが、自分にできることはなんだろうか、でした。
あれほど強かった大日本帝国はなぜ滅びたか。
頭が悪くなったからです。
では、なぜ頭が悪くなったか。
間違った言論がまかり通り、正しい言論が通らなくなったからです。
その悲惨な言論環境は今も続いています。
まさに戦後レジーム、日本を敗戦国のままにさせる体制です。
ならば、正しい言論が通る言論環境を作るにはどうしたらよいか。
良質な言論を提供することと、目の肥えた読者層の開拓です。
そこで、最近の倉山塾では
「ちゃんとした本を読んで、事実に基づいて意見を書こう」というキャンペーンをしています。
一人の読書量は限られていても、他人の経験と知見を共有することは、
有意義であると考えるからです。
また最近は、病気発症前にお引き受けした仕事を徐々に再開しているのですが、
日本を愛する真面目な人から必ずと言っていいほど、
「自分は何をすればよいですか」という質問を受けます。
私が、その時に答えていることが、
「いついかなる時でも、勉強をすることと仲間を増やすことができる」
です。
そこで、目の肥えた読者層を開拓するために、
私がどのような読書をしてきたか、その方法論を公開します。
今考えている内容は以下です。
・プロの言論人なら、最低でも3年で1000冊の本を読め。
・専門家になるのが修行法。それを知れば本物と偽物は見抜ける。
・プロにならなくても、プロの修行法と練習法は知っておけ。それ自体が勉強になる。
・目的によって、読書のやり方は変わってくる。
・プロの言論人ではない普通の人は、どれくらいの量の本を読むべきか。
・「硬い本」「柔らかい本」とは何か。どうやって区別する?
・1日1冊の本を読むのは不可能。しかし、年間365冊の本を読むのは可能。なぜか。
・読書術は、ちょっとした工夫と根気。ダイエットよりはるかに簡単♪
・プロの「読む」とアマの「読む」の違い。
・「見る」と「観る」の違い。
・「見たことがある」「聞いたことがある」がどれほど大きいか。
以上は倉山塾掲示板でのコピペですが、ここから後の内容は既に企業秘密なので、ここまで。
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必ず買って読みます
こういうお話をみるたびに思うのは
言論人に一番求められる才能って、エンターテイナーとしての能力なんだろうなーと。
人間が情報を取捨選択する第一関門は、興味を引かれるかどうか
第二関門は、わかりやすいかどうか
第三関門は、印象に残りやすいかどうか
この三つを突破できないと、正しい言論だろうが、誰にも伝わらないという悲しい結末しかまってない。
福沢諭吉が、日本を救うために書いた学問のすすめも、「猿にでも読める」ように書かれたもの。
猿にでも興味が持てて、猿にでもわかりやすくて、猿にでも印象に残る言論が、世界を動かすのかもしれません。
倉山先生もご苦労が多いことと思われますが、これからもがんばってください。
このスタンスは大いに賛同します。
意見はいろいろあっていいんです。ときどき教科書を読むことが、ひとつの意見に洗脳されることのように思い込んでる人がいるけど、ベーシックな学問というのはそんなヤワにはできてない。
ただ「一般的な学問的知見を踏まえた上で、見方や重視するバランスによって、異なる意見」と「トンデモ論」は別物なんですネ。一見表面的には同じようでも。
経済で例を挙げれば、宍戸駿太郎は「普通の経済学を踏まえた上で、財政政策の効果を重視する人」だが、三橋貴明は「トンデモ財政出動派」です。経済学を踏まえた上でふたりの言っているロジックを見ると、後者は、金利や流動性の罠のあたりの基礎的な理解がまるでできてなくて、ゆえに一見同じ立場でも、どんどん主張がイデオロギー的に凝り固まって病的になってゆく。
経済学の教科書で体系的に学んだことがなくて財政出動派を支持している人たちは、この二人の言ってる中身が実は全然違うことにどれだけ気づいているでしょうか?
あとトンデモな病人たちは都合が悪くなると、勉強してもいないのにすぐ、普通の学問が「完璧ではない」→「無意味・有害」と決め付け、ねじ曲げたがりますネ。完璧でないことなんてみんな承知の上で、世界中の賢い人が知恵を出してより良い学問にしようとしてるのに、そういう蓄積を尊重できないなんてどんだけ傲慢なんだと唖然とします。
そういう病的言論人にだまされないためにも、庶民も、基礎的な学問による底上げが必要であることを切実に感じます。