最近、特に認めない発言。
知識が無いので質問できません。
某アフリカの大使曰く、こういう発言をするのは日本人だけらしい。文明人たるもの、「知識が無いから質問するもの」だから。もちろん、自分で調べればわかるようなことではない質問。そういった空気を読めないで質問をしない、できない日本人の態度は、誰も美徳として認めてくれるはずが無い。「シャイ」だとバカにされるくらい。件の大使、続けて曰く。
日本人は何も考えていないのか?
ではどういう質問をするか?問題意識に基づいた質問をする。
知識が知識として独立した世界を確立する、他人にわかってなどもらえなくても価値がある!などとするのはマニアの世界だけ。学問の世界はマニアの世界とかぶるところもあるけど、それはインプットの話。アウトプットにおいては許されない。その知識が他人にとってどういう意味があるのかを伝えられなければ、それは単なる独り言。
マニアが二人並んでいても、問題意識に基づいた発言や質問ができないと、独り言が二つ並んでいるだけになる。対話にならない。
知識を披瀝した側が、なぜその知識をここで語るのかの問題意識を提示しなければならない。これをわからせることで、対話の前提条件が成立するので。
ところが、これを読み取ろうとしない人が何と多いことか。大学卒業までに習っていないと恥をかくのだが、「国際化」と言う割には誰も教えない。
大学卒業までに体で覚えるべし。
知識よりも意識!
倉山さん
こんばんは。藤沢です。
ここ最近、中々書き込めずにすみませぬ。
話す側と、聞く側の両方が意識している必要があるという事だと思います。月並みですが、やはり普段から考えている事のレベルを上げていく方向で自分自身を養っていく事が大切なのでしょうね。
私自身、出来ているつもりでも出来ていない時もあると思いますので、体で覚えると同時に、普段から意識している事がそれこそ大事だと思いました。
良い話を聞かせて頂き、有難うございました。
また宜しくお願い致します。
土曜日に宮崎岳志代議士とともにOBとして審査員をした花井杯という弁論大会では、「理念(理想とする社会像)」というすばらしい審査基準があったのですが、天下国家を語った弁士が七人中(少なッ!)一人だけ。
みんな「生活密着弁論」「身の丈にあった弁論」でしたね。天下国家を語れば良いものでもなく、身近な意識がダメなわけでもないのですが。
根本的に弁士が社会をどうしたいと思っているかを明示してはじめて物差しができるのであって、それを抜きにしていくら証拠を集めたり論理を組み立てたりしても瑣末でつまらないものにしかなりませんね。
哲学と哲学のぶつかり合いが対話なのであって、哲学がなければ独り言ですね。もちろん、この哲学の問題意識を共有するという作業が必要ですが、それをするには話してと聞き手の間に信頼関係が無ければならないですけど。