佐々木博士曰く「国民が皇室を見捨てたら・・・」

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 皆様、熱くそして高水準な議論ありがとうございます。この砦が幕末の適塾のように高い知的水準の議論で、社会を動かせるようになればなあ、などと思っています。(まだ「笑」ですけど、「真剣」です)

 通りすがりの2号さん、はじめまして。応援ありがとうございます。アカにもバカにもひどいめに遭わされ続けました。皆様のご声援だけが頼りです。これからもよろしくお願いします。

 さて、まずはご質問に関して。

一、日本国憲法における主権

 これは前文と一条に書いてある通り、日本国憲法における事実としては国民にあるでしょう。東大憲法学が四十一条に対してやったように、

「そんな条文はなかったことにする」

という、もはや学問ではない解釈をすれば話は別ですが。日本国憲法を認めた上では無理でしょう。特定の条文だけを解釈だけで無効にするよりは、まだ日本国憲法そのものの無効を考える方が筋は通ります。(それをやるべきかどうか、無効論が正しいかどうかは別として、比較の問題です。)

 あ、間違えました。人権尊重規定、全部なかったことにされていました。

 恐るべし東大憲法学。何を根拠に。。。って、これは長いので省略。

 

二、選挙では皇室の否定はできない?

 恐いことに、できます。これは国会に女系容認の皇室典範が提出されることを想像してください。少なくとも外見だけ同じで違う形のものにはできます。ということは。。。

 

三、政府と国家の違い(歴史の話)

 歴史学では大昔、「鎌倉幕府は国家か政府か」という論争がありました。別に鎌倉幕府は独立国でもなんでもないので、「政府」派の完勝でした。この頃の日本中世史家はまともでしたから。より正確に言うと、「政府」というよりも「統治機構」の方が正しいでしょうね。別に朝廷から独立していた訳でも何でもないので。当時は治天の君を頂点とする日本国があって、律令体制の中で実質的に機能する統治機構として鎌倉幕府があった訳ですから。

 細かい話ですけど、1573年に織田信長が室町幕府を滅ぼしたという記述は誤りです。その後も存続しています。私は「十何回目の滅亡」と呼んでますが、あの状態から復活するから、足利はすごいのです。

 あと、江戸幕府と明治政府が連続していないかと言うと、そこは議論の余地があるでしょう。外交史料館には幕府からの外交関係の引継ぎをしています。しっかり政府承継をしているので、「滅亡」という表現が適当かどうかを疑ったほうが良いかもしれません。こういう議論、日本近代史学では蛇蝎の如く嫌われますが。

 

四、政体と国体の違い(帝国憲法の議論)

 これは言い出すと、少なくとも一つの論文になるのでご容赦を、といきたいのですが、前回の続きの形で、ここからが本題です。

 美濃部達吉博士の東大学派や政府見解(※清水澄宮内省御用係)は改正限界説でした。特に、コミンテルン日本支部こと日本共産党の結成により、日本史上はじめて「天皇家を滅ぼす!」と明確な意思を持った日本人集団が現れてしまった訳ですから、「天皇を中心とした日本の国体を変更する憲法改正は可能である」とは言えなくなるのです。ただし、これは政策の都合として「してはいけない」と言い張っているだけで、法理論上の根拠は?と言われると明確に示せないのです。

※清水博士は、学者としての見識と政府見解での意見が必ずしも一致しないので、細かいところはこれからの研究課題です。

 それに対して佐々木惣一博士の京都学派は「いかなる改正にも限界はない」との法理論でした。ここで憲法史に詳しい方は疑問に思われるかもしれません。「佐々木博士は美濃部博士や清水博士と同様に陛下に対する忠誠心のお強い方だったのでは?」と。

 それは私も否定しません。ではどういうことか。

 佐々木博士はあくまで法理論として限界はない、とのお考えでした。もちろん、天皇個人のいっときのお考えで歴史と伝統を否定することはできない、との立場は明確です。そもそも帝国憲法からして、明治大帝が皇祖皇宗にお誓いになる形式で定められたのですから。どこぞのシアヌーク国王のように勝手に共産主義国の首領を名乗るなど、日本では許されないのです。(かの国でも元に戻しましたが)

 しかし、佐々木博士は日本の皇室の伝統を、陛下は国民を「大御宝(おおみたから)」「赤子(せきし)」として大事にし、国民もまた陛下をお守りする、これが日本の自然にあった国体であるとしました。佐々木博士は知りえなかった話ですが、昭和天皇なども「皇室は国民とともにあった。国民を信じる」とのお言葉を敗戦の危機の際に何度も漏らしています。

 その国民が「もはや皇室はいらない」と言い出した時に、それを法理論などでは物理的に止められないし、止める法理も存在しない、と断言されました。ここまでは法律解釈の話です。

 ところが、続きがあります。佐々木博士は法律論(である論)とはまた別に政治論(べき論)も唱えています。

 国民が皇室を見捨てた時、日本は日本ではなくなる!

と。

 新旧憲法の議論において改正の限界を認めるかどうかに関しての現在の私は、宮沢憲法学が勝手に決めた「平和主義・国民主権・人権尊重」などは改正の限界でも何でもない、と考えています。その根拠は長いので、今月第四土曜日の帝国憲法講義でやります。

 では皇室の問題はどうか。現在の時局認識でしか言えませんが、危機にあります。これは何度も繰り返した通りです。

 一人でも多くの国民が「皇室に手をかけるな!」と声をあげるべきでしょう。

 国民が守らない限り、皇室は政府の特定の官僚やその走狗の政治家たちによって壟断されます。

 

 あー、ますますネタが渋滞する。嬉しい悲鳴です。

「佐々木博士曰く「国民が皇室を見捨てたら・・・」」への0件のフィードバック

  1. 足利幕府滅亡、何回目か気になって数えて見ました。滅亡の定義が「将軍が政争に負けて京都にいられなくなる」だと以下。

    第一回、観応二年(一三五一年)・・・観応の擾乱。足利尊氏、敗北。
    第二回、観応三年(一三五二年)・・・正平の一統。足利尊氏、南朝に降伏。征夷大将軍、解任。
    第三回、文和二年(一三五三年)・・・京都を山名時氏らに奪われる。
    第四回、文和三年(一三五四年)・・・南朝に京都を奪還される。
    第五回、康安元年(一三六一年)・・・足利義詮、南朝に京都を奪還される。
    第六回、明応二年(一四九三年)・・・明応の政変。足利義稙、細川政元に追放され、征夷大将軍解任。
    第七回、永正五年(一五〇八年)・・・足利義澄、近江に亡命。征夷大将軍、解任。
    第八回、永正十年(一五一三年)・・・足利義稙、出奔。
    第九回、大永元年(一五二一年)・・・足利義稙、出奔。後柏原天皇の勅勘を蒙り、征夷大将軍解任。
    第十回、大永七年(一五二七年)・・・桂川の戦い。足利義晴、出奔。
    第十一回、天文元年(一五三二年)・・・足利義晴、奉行衆(ついでに奉公衆も)を連れ、近江に幕府を移す。
    第十二回、天文十年(一五四一年)・・・足利義晴、近江に逃亡。
    第十三回、天文十二年(一五四三年)・・・足利義晴、近江に逃亡。
    第十四回、天文十六年(一五四七年)・・・足利義晴、近江に逃亡。
    第十五回、天文十八年(一五四九年)・・・足利義晴、近江に逃亡。
    第十六回、天文二十二年(一五五三年)・・・足利義輝、近江に逃亡。
    第十七回、永禄元年(一五五八年)・・・足利義輝、近江に逃亡。
    第十八回、永禄八年(一五六五年)・・・永禄の変。足利義輝暗殺。二年空位の後、後継将軍義栄は入京できず。
    第十九回、元亀四年(一五七三年)・・・足利義昭、追放。備後国鞆に亡命政権を樹立。
    第二十回、天正十六年(一五八八)・・・足利義昭、征夷大将軍を辞任。

     少なくとも、足利義昭は織田信長に追放されたくらいで「幕府が滅亡した」とは思っていなかったでしょう。信長は将軍解任すらできませんでしたから。
    歴史は今の価値観ではなく、当時生きている人の価値観で見なければわからない、という典型例として出しました。

  2. >憲法41条「なかったことにする」
    ぎゃはははははははははは(≧▽≦)腹抱えて笑いました。
    いわゆる「政治的美称説」のことですね。このあたりの芦辺解説書、何度読んでも意味が分からないんですよね。あまり詳しくアラを指摘すると切りがありませんが、書いている途中で論理破綻してることに気づかなかったんでしょうか?私はこれを「ヨイショ説」「単なる褒め言葉説」と呼んで罵っています。

    >人権尊重規定、全部なかったことにされていました。
    これもよく分からないことがあります。憲法の論証で「人権は前国家的性質を有するから、外国人にも保障される」と言っておきながら「参政権、社会権等は後国家的権利であるから、外国人には保障されない」ということを、私は今までに数え切れないほど書いてきましたが、何なんでしょうね、あれ…
    「保障されないなら人権と言うな!」という感じです。ドイツはこのあたり、潔いというか分かりやすいというか、明確にしてるようですが。

    ところで、国民主権を定めた条文は、憲法では前文と1条ですが、1条の構成は「(天皇の象徴としての地位は)主権の存する日本国民の総意」とされています。これは文理上、「天皇が国の象徴であることが国民主権原理の証明である」というべきなんですが、天皇を廃位した場合、いったいどうやって日本が国民主権国家であることを証明するのか、長年の疑問ではあります。

  3. 私には、そもそも「主権」「人権」とは一体何のことであるのかがよくわかりません(笑)
    叔父さんの息子さんの憲法第1条の文理のお話は、大変興味深いですね!

    足利さんはタフですねぇ。義昭さんが征夷大将軍を辞任した後の話も、調べてみるとなかなか面白いです。

    江戸幕府⇒明治政府の流れは、倉山さんおっしゃるとおり、連続しているという見方も成立しうると思います。
    外交のみならず内政についても、江戸幕府が既に計画・準備あるいは実際に着手し始めていたのを引き継いだのが、いわゆる明治の改革であるというような話も聞いたことがあります。「引き継いだ」というか、幕府ファンの人は「手柄横取り」「劣化コピー」と思っているみたいですが。

    ともあれ、「かつてあった日本という国の廃墟に巣食う根無しの人民」となってしまいたくなければ、自分たち自身の問題として、ご皇室を守らねばなりませんね。昨日も書きましたが、国民を「大御宝」と思ってくださる統治者を滅ぼして立った新しい統治者が、同じように国民を「大御宝」と思うなどということは絶対にありえないのですから。

  4. 昨日、歌舞伎座に義経千本桜を観に行きました。

    義経千本桜は、
    壇ノ浦で入水した安徳天皇が実は生きていて『お安』として身を潜めて暮らしているという設定で、
    齢9才の『お安』に、何か特別な力を感じ、
    弁慶が足をすくませる、というシーンが描かれています。

    天皇を慕い敬う気持ちが、当たり前のように大衆芸能にまで浸透しているのだな〜と、思いました。

    天皇と皇室を否定すること、あるいは天皇よりも優れた統治者を見つけることは、
    日本においては、不自然だし、絶対に無理でしょうね。

  5. >dodo様
    主権とはズバリ、聖徳太子です。

    一般に主権とは
    1.国家権力そのもの(統治権)。
    2.国家権力の属性としての最高独立性(内政に対する最高、外交に対する独立)。
    3.国政についての最高意思決定権(より具体的に言えば、憲法制定権力)。
    …と解されています。

    これは主に、フランス絶対王政時代に「君主の権力」として一体的に理解されてきたものが、立憲主義の確立に伴って3つの意味に分解したとされています。
    フランスでは、王権が国内の諸権力に対して最高の権力であり、神聖ローマ(ドイツ)とローマ教皇に対しては独立の権力であることを意味したと言われています(参考文献『憲法』芦辺・岩波書店刊、『憲法1』野中他・有斐閣刊)。

    これを聖徳太子の事跡である十七条憲法制定と遣隋使派遣(国書送付)について見てみると、
    1.日本の統治権は天皇を中心とする大和王権が持つ。
    2.日本は天皇を中心とする大和王権が独自に統治する国家であり、隋とは主従関係に立たない(日本と隋は対等の独立国家である)。
    3.憲法(十七条憲法は近代憲法とは趣が異なるが、国の基礎法という意味では実質的意味の憲法と言いうる。実質的意味の憲法については、『憲法1』に記述されているので参照せられたい)を制定しうる「国家意思最高決定権」は天皇にあり、天皇の権力は蘇我氏、物部氏ら豪族より上位にある。
    …ということになります。

    近代憲法学の解説という制約上、絶対王政時代のヨーロッパを引き合いに出さなければならないのは仕方がないのかもしれませんが、日本での主権概念は7世紀には確立していたわけですね。

    なお、憲法学にいう「国民主権」とは3の意味の主権であり、国家主権や天皇主権という概念が1や2を指すのであれば、必ずしも矛盾するものではないということができそうです。

  6. >叔父さんの息子さん
    それが全然わからないんですよね(笑)

    1の「国家主権」というのは、まあわかるんです。

    2の「天皇主権」は戦後できた言葉で、昔は「天皇大権」と言った。なぜ、「天皇大権」を「天皇主権」と言い換えることになったのでしょうか。謎ですねぇ(笑) 

    となると、3の「憲法制定権という意味での主権」ですか。日本の憲法制定権者は一体誰なのか。
    帝国憲法を制定するときの話です。伝来の国法(「不磨の大典」)を近代民主主義が行えるように整えて、皇祖皇宗に対しつつしみうやまって定めさせていただいた(これが「欽定」の語意)、という主旨のことを明治天皇はおっしゃっています。
    戦前、憲法制定権は天皇にあったんですか?(笑)
    微妙ですねぇ。今我々が持っていることになっている「主権」というのも、やっぱりよくわからないものになってしまいますね。

    あ、戦後日本はそれ以前の日本とは違う国だ、革命が起こったんだ〜とおっしゃるなら、理屈は通りますけどね。

  7. 追記です。

    聖徳太子が作ったとされる十七条憲法でさえ、勝手に作ったのではない、それ以前からの統治原則を改めて書き記したにすぎない、という見方ができるらしいのですよ。
    日本語の古語をよく研究されている方に言わせれば、「以和爲貴」は「和す(やわす)をもちて〜」と読み下すべきではないかとのこと。「和す(やわす)」は「民が安らかに暮らせるように取り計らう」の意で、それこそが天皇の臣下の尊き職務である、ということになる。これは聖徳太子以前の時代からの日本の統治原則なんだ、と。

    ちなみに、「大和王権」という言葉は、ごく最近になってサヨが使い始めたもので、私が学生のときは「大和朝廷」と言いました。
    東北地方には「えみし」がいたと言われます。しかし東北には、大和朝廷以前からの古い神社もたくさんあるんですよね。
    例えば津軽の岩木山神社は、坂上田村麻呂が東北平定は岩木山大神のおかげと言って再建したというのですから、相当古い。宮城県の塩釜神社に至っては、主祭神が誰かわからないほど古い(笑 その事情は予想できますけど長くなるので書きません)
    私も東北の生まれですが、私が氏子になっている神社の創建は、第13代成務天皇の御世とされています。勅命で派遣された国造(くにつこ・くにのみやつこ)様が建てたのだそうです。御祭神はわくむすび様で、五穀と養蚕の神様です。おそらく、新しい農業・灌漑技術や、よい種籾・桑・蚕の種などを、都と各地域で伝え合っていたことを象徴しているものと思われます。紡績の伝統は絹から化学繊維・ガラス繊維へと姿を変えながら、未だに残っていたりします。
    「えみし」とは一体何者なのでしょうかね。「人でなし」は人でない者に対して使う言葉ではない。「非国民」も外国人・異人種・異民族に対して使う言葉ではない。さてさて。

    話がそれてしまいましたがともあれ、日本の成文憲法は、今の日本国憲法を除いては(笑)どこまで遡っても、伝来の法を「改めて書き記した」というようなもの。「憲法制定権」が、その時その時に生きている人物になどあったためしがない。そういう見方もできる、ということです。

  8. わかると思いますが一応訂正…
    誤:「人でなし」は人でない者
    正:「人でなし」は人でない生き物

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