仙台さんのご質問にお答えする形になります。同時にdodoさんへのお答えにもなっていると思います。それこそ尽きることがない深い質問であり、憲法学が現実の生活に直結する大変な問題だと認識させられます。
本当の憲法学は、自分が、国家が生存するためにはどうすれば良いのか、を考える法哲学ですから。
まず英国の場合、「主権という概念が正しいならば、主権は議会にある。議会が王制の廃止や国王の処刑を決定したら、その執行書に国王は署名しなければならない」などと言われます。
ただし、英国には不文の憲法である憲法習律(法体系に組み込まれた慣例)があります。王制の廃止や国王の処刑などを議会が法律で決行すれば、それは英国革命以前の状態に逆戻りします。その覚悟があるならばやって良いですよ(実際には無理ですよね)、という考え方で英国憲法体系は成り立っています。
ここで大陸法の立場からのよくある批判。主権は絶対無制限のはず、なぜ習律なるもので縛れるのか?矛盾である。
英国憲法学者答えて曰く。「どうでも良い!憲法は国家のためにある。」と。
実際には、王制の廃止や国王の処刑はできないことになっています。憲法は人権のためにある、国家など本当は嫌い、政府が守ってくれればそれで良い、などと考えている東大憲法学には思いもよらないでしょう。
さて、本題。我が国の日本国憲法には「改正の限界」なるものがあるそうです。「平和主義・国民主権・人権尊重」はいかなる憲法改正においても変えてはならないのだそうです。俗に三大原則と言われます。誰が決めたか?宮沢俊義東大教授が勝手に決めました。
改正の限界に天皇は入っていません。「天皇制の廃止は、していけないことではない」と宮沢が勝手に決めました。その後、憲法学者と称する信者達が宗教として広めただけです。今や教科書や試験を通じて支配的価値観になっています。でも何の根拠もありません。むしろ、「改正の限界」を強調する東大憲法学によれば、これは明らかな矛盾です。
仙台さんが指摘されたように、「皇室制度を廃止する改憲」に対して天皇には拒否権がないとおかしいですし、三大原則以上の絶対の原則でなければならないはずです。
こういうことを言うと「天皇に対する批判を許さないなど、戦前の治安維持法と同じだ。」などと言われるのですが、英国の場合は見ての通りです。フランス憲法は「共和制を否定する改憲は許さない」と明記しています。ドイツはナチスと共産党を非合法化していることを「戦う民主主義」などと誇っています。米国では共和制に対する忠誠、具体的には国旗国歌に対して忠誠を示さないと刑務所に入れられます。
実は治安維持法の内容など、今の世界の文明国の憲法法律には明記されているのです。
ちなみに日本の憲法学者の多数はいまだに「人民には革命を起こす権利がある。」などと考えています。中には「明治憲法にも革命権的考え方があった。だから後進的だと言うのはおかしい。」などと述べる方もいます。ここまで頓珍漢だと、もはやどこから批判すれば良いのかわからないのですが。
国民があるべき国家の姿を考えねばならないでしょう。今からはじめないと、あと少しで手遅れになります。
現実的政策論の話です。女系容認の皇室典範改定が通ったら、天皇が御名を拒否し、衆議院に解散を命じることは可能であると思います。鳩山首相が聞くか聞かないかの話だけで。少なくとも警告権の発動は立憲君主に認められた権利なので、すべてを鳩山首相の責任で行うべきであると思います。ただし、現実的政策論である以上、それが報道に漏れたら大変でしょうが。
一九三一年の英国では、与党労働党の造反によってマクドナルド総理総裁らが追放されるという事態がありました。この時に国王は野党保守党との連立を命じ、解散によって保守党が多数になりマクドナルド政権は継続した。その後、マクドナルドは退陣に際して首相の座を保守党に渡している。ということがありました。
この時の国王の措置は違憲の疑いが指摘されますが、世界恐慌という大英帝国が覇権国として生き残れるかどうかの未曾有の危機に際して、しかも政治家が当事者能力を喪失した時に、国王が大権を行使した歴史はあります。
この時の先例をそのまま日本で適用するのは反対です。しかし、皇室のあり方などという日本建国以来の大問題であり、天皇家自身の問題に対して陛下に「象徴なんだから黙って国会の決定に従え」というのは、それこそ違憲の疑いがあると思います。日本固有の伝統は言うに及ばず、日本国憲法の立場に立っても。少なくとも条文を読めば、伝統に反する疑いのある皇室典範の改定に天皇が意思表示もできずに署名しなければならないとの法理はどこから出てくるのかわかりません。
東大学派が良く使う筆法で書きます。彼らは、人権その他の説明ではよくこういう書き方をするのですが。
「天皇が皇室を否定する決定を公布するのは明らかな矛盾である」
これを書かない一点で、私は宮沢と芦部が作った東大憲法学のすべてを否定します。皇室の敵であると同時に、彼らの論理が破綻しているからです。
東大憲法学を本気で信じている狂信者に、もっと平たく言いましょう。
貴方達はアカですらない、ただのバカです。
素晴らしい!その通りです。
私もかねがねそう思っていたのですが、根拠を示すことが出来ず議論の際に非常に苦い思いをしたことがあります。倉山先生のおっしゃることは非常に説得力があり、また、根拠となる学説なども分かりやすく解説していただけるため本当に勉強になります。
これからもがんばってください!!アカ(バカ)に負けるな!!
なるほど。
仮に、女系容認の皇室典範改定が通ったとする。しかし天皇が御名を拒否して衆議院に解散を命じた。が、首相が聞き入れずに「国会は国権の最高機関であると憲法に書いてありますから」などと言って押し通そうとした。
こういうのをきっかけにして日本の歴史的な事件って起こってきたんだよ、みたいな話になりますか。
怖いなぁ… 女系容認の皇室典範改定に陛下が御名を拒否しなかった場合は、もっと怖いことになりそうですけど。
おっしゃるとおり、俺はバカだよ(−_−メ;)
…というのはイーグルス野村監督の発言ですが(あの人も今年限りで辞めるようですねぇ、勿体無い)、それはともかく…
ここで「政府」と「国家」というものが出てきたので、せっかくなので問題を提起させて頂きます。私が発言するとまた紛糾するかもしれませんが、しばしお付き合い下さい。
そもそも「政府の滅亡」と「国家の滅亡」は、何が違うのかという問題です。
たとえば、日本では有史以来幾度となく政府が滅亡しています。江戸幕府は自己解体の道を選んだわけで、その後に発足した明治政府とは連続していません。同じように、室町幕府は幾度となく解体と復活を繰り返しつつ、最後は信長に止めをさされています。信長は意図的に室町幕府を「ぶっ壊した」わけですから、室町幕府と信長政権に連続性は認められません。これらの例では、そこに存在した政府は間違いなく「滅亡した」と考えて良いでしょう。
しかし、だからといってそこで日本という国が政府とともに一旦滅んだ、とはどうしても思えないのです。その意味では、日本という国家は古く大和王権の時代から現代まで連続しており、平安時代に生きた民衆も、現代日本人も、世代が違うだけの同じ日本国民であるということができそうです。
ぶっちゃけて言ってしまえば、現代日本政府をぶっ壊すなど簡単にできます(だからと言って私にできるわけではありませんし、そもそもそんな気もないですが)。しかし、それが同時に日本という国家の滅亡も意味するとは到底思えないのです。
では諸外国の場合はどうか?例えば、「中国4000年の歴史」と言いますが、現代の中華人民共和国(そもそもあれが正当な国家と言えるかどうかも疑問だが)が、古代支那帝国、古くは三皇五帝の時代の古代支那と連続した国家であるとは到底思えないのです。辛うじて言えば、隋と唐には連続性は認められそうですが。聖徳太子もそう認識していたようですし。
朝鮮半島も現代の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国(大体国名に「民主」だの「人民」だのと入れる国ってろくなもんじゃないよなぁ。素顔に自信のない女ほど化粧がうまいとか、中身のない男ほどおしゃれに気を使うとかいうのと同じようなもんですかいな)が、檀君神話に代表される古代朝鮮、もっとハッキリ言ってしまえば直近の独立国家である李氏朝鮮とすらも「国家として」連続しているようには思えないのです。
ロシアなんてもっと露骨ですよねぇ。現代のロシア共和国と、わずか20年前には明らかに存在したソ連との間に国家としての連続性があるようには思えません。
ではフランスは?フランス革命で一旦滅亡したようにも思えますし、あるいはあれは単なる王政廃止であって国家としては連続しているようにも思えますし、やや微妙です。
そう考えると、「政府の滅亡と国家の滅亡は何が違うのか。政府の滅亡はすなわち国家の滅亡を意味するのか。」もっと突き詰めて考えれば「国家にとっての政府とは何か、政府にとっての国家とは何か」という問題にも行き着きます。これはどう考えるべきなんでしょうね。
東大憲法学にどっぷり浸かってしまっている私には、どうしても「国家論」って良くわからない部分があるんですよね。このあたりは考えてみても面白そうなところだと思います。
「国家観」からしてそれぞれの国や民族によってまちまちなんだ、というところから入る必要があるかもしれません。
「国家」を船とすると「政府」はエンジンです。エンジンを取り替えても船は同じ船のままであるように、「政府」が変わっても「国家」は同じままです。日本人は皆同じ日本丸に乗り合わせているようなものなんですよ。
こう言われれば、ほとんどの日本人は半分くらいの納得度は示してくれるのではないかと思いますが、外国に行ったならばどうだか… おそらく、日本語の「国家」を完全には翻訳できない言葉の国・民族もたくさんあるのではないでしょうか。
即ち、「国家」とは他と比較ができないものです。「国家」が存在している場合、それは相対的にではなく絶対的に、存在しています。
我々は本当に幸せな民族ですなぁ。君が代でも歌いたくなりますね。今日は祝日ですし、と、こういう話になるんですけど(笑)
より厳密にするため加筆します。
前:「国家」とは他と比較ができないものです
後:日本語でいう「国家」とは他と比較ができないものです。
dodoさんの例えはとても解りやすいですね。そうすると、「日本丸」の解体は何を意味するのか、恐ろしいものを感じます。
これは、竹田先生の仰られる「国体」と「政体」のお話ですね。
この場合、「国体」(この言葉を使うと総理をやめさせられそうだなぁ)とは
「皇室を最上位に頂き、その下位組織である政体が実質的な政治を行う構造」ということになるそうです。これが叔父さんの息子さんの仰られる「国家」に相当するのではないでしょうか。
※余談ですが、『國体の本義』を読むと「国のあり方」について熱く語られてるのでなかなか興味深いですよ。
一方、「政体」とは実際に政治を行う機構、つまり太政官とか幕府とか明治政府を指すそうです。摂関政治や幕府の盛衰は「政体」の交代と言えるでしょう。議会政治が始まる前のイギリスの王家簒奪などは、「政体の交代」に当てはまるのでしょうか。
ふと思ったのですが、国と政府が遊離するのは立憲君主制国家の特徴なのではないでしょうか。君主制を護持するために「政体」を捨て駒とする制度ともいいかえられないでしょうか。
何点か質問させていただきます。
まず一点めは、現行憲法上主権は天皇にあるという認識ででよろしいでしょうか?
二点目は、選挙などでは国体をなくす(天皇を否定する)は、できないということでよろしいでしょうか(皇室の自然消滅か武力革命のみでしかできない)?
愚問だと思われるでしょうが、基礎を整理したいのでお答えいただければありがたいです。
>瀛さん
『國体の本義』は最初のほうはいいんですけど、途中からあれあれっという感じになってしまうんですよね。天皇親政と言ってみたり。熱いのだけは確かです。
私は、日本を考えたり語ったりする場合、天皇から始めてはおかしくなってしまうような気がいたします。日本を考えたり語ったりするのを突き詰めて行くと最後に必ず天皇に行き着く、ということなんだろうと思うのです。
ですからまずは「国家」というものについて、もう少し詰めてみます。
日本人が日本語で「国家」について考えるとき、まずは最も身近な日本という「国家」を基準として、日本を参照しつつ他国のことを考えるのが常です。
ところが、叔父さんの息子さんが述べておられるように、シナ大陸・朝鮮半島のは何かちょっと違うな、ロシア大陸のも違うな、ということになっていく。
また、西洋キリスト教国の場合は、どちらかというと、日本の江戸時代の「藩」みたいなもので、やはり相対的な存在です。彼らにとって絶対的なのがあるとすると、「ヤハウェ」だけですから。
日本語でいう「国家」は、それが存在している場合、相対的にではなく絶対的に存在している。即ち、西洋人が「ヤハウェ」を信じるのと、日本人が「国家」を信じるのとは、同等である。
実は日本は、国家を絶対神とする一神教の国なのでした。
ここで古典をひもといてみると、「大日本者神国也」とちゃんと書いてある(笑)
日本人にとって「国家」こそが唯一絶対神ですから、日本人が日本語で「国家」という言葉を使うとき、必ず、信仰の告白になってしまいます。
>東大憲法学にどっぷり浸かってしまっている私には、どうしても「国家論」って良くわからない部分がある
とおっしゃる叔父さんの息子さんのコメントでさえ、実はそうです。
「東大憲法学を本気で信じている狂信者」は、己の信仰に無自覚であるがゆえに、己が信じているまさにその対象を壊そうとしてしまっているわけで、確かに「アカですらない、ただのバカ」だとしか言いようがない。
倉山さんの一喝もごもっともと言えましょう。
いろいろ書いているうちに長文になってしまったのですが、せっかくなので披露させてください。
日本人にとっての「国家」が神であるとして、では「国体」とは何ぞや。
国体とは国家のありよう、国家の性質・体質のことで、英語で言うと「constitution」です。「constitution」には「憲法」という意味もあります。
それがなくなったら日本が日本ではなくなってしまうような国家の体質、今なお変わらず生きている本当の日本の憲法、日本的統治の原理とは何か。
これについても、あれにこう書いてある、これにこう書いてあるというのではなく、日常誰もが感じるようなことの中から見つけていかねばならないと、私は思うのです。
ここからは私見ですが、日本的統治の原理とは結局のところ、「リーダーが自分のことを後回しにすることによって集団が団結する」ということに尽きるんだろうなぁ、ということです。
日本の良識ある人でこの統治原理を否定できる人がいるでしょうか。政治的立場等々に関わらず、「リーダーが周りより自分を優先する」ことだけは皆が嫌うのではないでしょうか。
これは政治のみならず、いわゆる日本的経営とも関係しますし、また、先日お題になった家制度における家督相続者(家長)の話にも通じます。
今の日本で、実際に人の上に立つ者が「自分のことは後回し」でやっているかどうかには疑問もあります。実際は様々でしょう。
しかし、「人の上に立つ者は自分のことは後回しにすべきだ」といった考え方そのものは、未だ根強く人々の心の中にあるのではないでしょうか?
無論、「リーダーが自分のことを後回しにすることによって集団が団結する」という考え方は日本特有とまでは申せません。
ですが日本ほど、その統治原理が実に細かに大小の集団に行き届いた国(少なくとも行き届いた経験を豊かに持つ国)は、なかなかないのではないかと思います。これ即ち、「国体の精華」です。
「人の上に立つ者は、自分のことは後回し」というのは、言うに安く行うに難いものです。
といいますのも、人の上に立った者が自分のことは後回しにして下の者のためにと思っても、より上の者が私のために力を振るうときに中間の者だけが私を捨てるなどということは、無理な話です。
より上位の者が、より己に厳しく自分のことを後回しにしない限り、「リーダーは自分のことは後回し」で世の中が回るということは成立しません。
にもかかわらず日本人はこれまで、「リーダーが自分のことを後回しにすることによって集団が団結する」という現象を、国家レベル民族レベルで、深く味わい続けてきました。
それは一体誰のおかげか。
(続きます)
日本の歴史には謎があります。
力という意味ではその時々に朝廷を上回った勢力もあろうに、ご皇室は連綿と続いてきました。天皇を廃位させようと試みた人物は、おそらく、歴史上たくさんいたでしょう。しかしそのような試みは必ず、失敗するか断念させられるかしてきました。南北朝時代などもありましたが、しかしご皇室は続きました。
これは大いなる謎です。こんな国は他にないんですから。
この謎と向き合うのには、教育勅語の冒頭が、よい補助線となるやもしれません。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ」
後ろ半分の「ヲ樹ツルコト深厚ナリ」が、「リーダーが自分のことを後回しにすることによって集団が団結する」という統治原理を確立した、という意味です。
その統治原理がしっかり確立していたので、その後に強大な権力を握った人物や勢力も、天皇を廃位させることはできなかった。私はそう思うのです。
リーダーには自分のことを後回しにすることが求められます。そういうリーダーは、本当のNo.1は誰かといったようなことにはこだわらないはずです。既に実権を握っているのに、その上天皇を廃位させようとするような輩が、No.1のポジションを奪った後に「リーダーは自分のことを後回しにしよう!」などと言うはずがないのです。国家を私物化するに決まっています。
我々の祖先は、そんなことは絶対に許さなかったのでした。
憲法の条文風にまとめてみます。
天皇は、日本国の元首であり、「人の上に立つ者が自分のことを後回しにすることによって集団が団結する」という統治原理に基づく日本の国体を象徴する。
天皇は、国を肇め統治原理を確立した皇祖皇宗の遺訓を守る誓いを日々新たにするために、祭祀を行う。
(こちらは「天皇=現人神」「天皇は祭祀王=神主さんの一番偉い人」「ご皇室は日本人の全ての家族の総本家」などと主張する方への予めの反論です)
以上、「国家」「国体」「天皇」及び三者の関係について、私なりの考えを述べさせてもらいました。
長文失礼しました。なかなかこういう議論を落ち着いてできる機会がないもので、張り切ってしまいました。