近衛対東條―語らずの弁―

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「加藤対清浦」は飛ばします。私の専門である「憲政の常道」はゆっくり本格的にやりたいと思います。本当は近衛対東條も飛ばしたかったのですけど、最低限二つだけ書いておきます。

「近衛対東條」というか、日本史全体で最も重要な組織について書きませんでした。まだ誰も本格的には述べていないのですが。前回の帝国憲法講義に来ていただいた方はおわかりですけど、ばらさないでくださいね。

 昭和十年代の日本に何が起きていたか、について世間では語りつくされた感があるようですけど、私は重要な点についてまったく語られていないと思っています。なぜこの人たちを抜きにして昭和史を語れるの?というほどの重要機関です。今でも名前を変えて存在していますし、新聞報道を見ると、鳩山内閣があっという間に取り込まれたのがよくわかります。この人たちの研究は現代史的意義もあると思うのですが。重要人物を四人並べた中、三人までは何とか相当の研究者やかなりの歴史マニアの方は知っていましたが、一人は知っている人に出会えたことがないです。昭和十年代、未解明部分だらけです。何となくの仮説はあるのですが。

 もう一つは、最近の近衛文麿再評価論への批判箇所です。「近衛が投げ出した政権を東條が押し付けられた見方もできる」ですが、私は短い行数で全部の立証はできないのであえて引いた言い方をしていますが、これは実は断言できます。ただし立証しようとしたら一冊の本になりますが。「なぜ日本は無謀な対米戦に突き進んでいったのか」は皆さんが疑問に思うところだと思います。

 正確には「なぜ、ソ連の片手間の、中国の片手間の、イギリスの片手間に、アメリカと戦争をしたのか」だと思いますが。これの絡みでよく「帝国憲法(体制)は生きていたのか」とよく聞かれます。

 一応、解答。憲法典は生きていたが、憲法体制は死にかけていた。憲法習律の中でも生きているものもあれば、死んでいるものもあった、です。さすがに要約だけだと難しいですね。

「近衛対東條―語らずの弁―」への0件のフィードバック

  1. 憲法体制が死にかけていたということは、国体、国政が大きく揺れていたということですか?
    死んでいる部分が非常に気になります。

  2. その通りです。大きく揺れました。
    少なくとも、昭和七年以降は「憲政の常道」は死にました。これが十三年間で十三代の内閣が出現すると言う大混乱の原因になります。政策においても大日本帝国は国策を誤り、というか国策を確立できずに、滅亡しました。
    ただし、閣内不一致に際しては総理大臣は罷免権(当時は「諭旨免官」と言った)は行使できず総辞職しなければならない、衆議院に不信任された内閣は総辞職しなければならない、統帥権は独立する(どこまでかの範囲は不明)という習律(これを慣例と呼ぼうが原則と呼ぼうが何でもよい)は、昭和二十年まで生きていました。
    英国憲法流に言えば、「骨は残ったが筋肉は失われた」が、大日本帝国憲法体制、最後の十年です。

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