LGBT二考

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去年はあえて控えていたけど、今年はこの問題にも所見を述べる。以下、切り取って「差別者」とレッテルを張れるものなら、張って結構。

その一 “LGBTばかりになったら国はつぶれる”

自民党の平沢勝栄衆議院議員が、支援者向けの集会でこういう発言をしたとか。

この種の発言が出るたびに、なぜか必ず聞かれる質問が「この発言正しくないですか?」なので、ここで答えておく。

政治家の発言が正しいか否かの基準は原則として、「次の選挙で当選できるか?」

だから、平沢氏が次の選挙で当選してくれば正しかったことになるし、落選すれば間違っていたことになる。中身の議論は結構だが、決着は選挙でつけるのが民主政治。

この基本原則から、以下のことが言える。

平沢氏の発言が間違っていると思えば選挙で落選させればいいし、次の選挙で当選したということは、選挙民が正しかったと認めたということ。憲法も国会法もその他法令も、「選挙で選ばれる政治家はそれだけリスクを負っているのだから、文句があれば有権者が落とせ」という風にできている。(だからハマコーは選挙に強かった)

裏を返せば、自分が絶対に落選しない自信があるなら、何を言ってもいい。(だからハマコーは言いたい放題言った)

ただし、自民党には「その一人の発言で、他の議員が落選するようになれば、そいつに党が何らかの制裁をする」という掟がある。(だからハマコーでも議員辞職に追い込まれた) マスコミは騒ぐ意図も、ここにある。

 

その二 那覇高、3学期から制服選択制へ LGBT対応で

「学校は規律を学ぶ場です。」と誰も言わないのが不思議。

生徒や親が要求するのは自由だけど、それを学校が、しかも公立高校が受け入れたとなると別問題。

そんなに学校が決めた制服に問題があるなら、制服という制度そのものを廃止して、私服にすればよいのでは?

実は日本国憲法下では、子供の自由をどこまで認めるかということが、裁判でも話題になっている。「高校生にパーマをかける自由はないのか」「中学生は丸刈りを強制されなければならないのか」など。そんなのは「学校は規律を学ぶ場です。」の一言で終了なのだが、裁判所は変な理屈をこねくり回している。

パーマにしても、丸刈りにしても、スカートにしても、子供が「そうしたい」と言ったときに、大人が「これが規律です。」って言わなくていいのかねって思う。よほど不合理な規律そのものは変えるべきではあるが、果たして男子生徒にスカートを履く自由を認めるのが学校なのかね。

ちなみに『右も左も誤解だらけの立憲主義』の「はじめに」&「おわり」にで、「男子生徒に化粧する自由はあるか」という似たような問題をとりあげたことがある。この本、自分でもなんで売れたかわからない難解な本だが、「はじめに」&「おわり」はわかりやすいと思うので、目を通していただければ。

「スカートを履かせろ」という男子生徒の主張に一理はあるのだが、その理屈を認めるということは従来の規律を壊すことになる。これは絶対の事実。では、如何に理があったとしても、その理屈を通すことと壊された理屈の比較衡量はしなくてよいのか。

たぶん、大人の側に、こういう判断ができていない、そもそも判断をする土壌としての教養がないのではないのかと思う。