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橋下徹さんのツイッターへの所見

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いやあ、驚いた。
昨日の私の発言(本ブログ及び同文転載したFB)に関し、橋下徹氏が、夜中に大量のツイートを流していた。
以上、下記ーーーまでは昨日の続きの独り言。まさか橋下氏ご本人がここまでの反応をしてくれるとは思わなかったので、単なる論評として敬語を使わなかったが(使うと嫌味感が漂うので)、前提が違い橋下氏が読むかもしれないので、以下は独り言ではなく対話のつもりで所見を述べる。
お暇ではないと思うので、全文読むとは思えないけど。

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まず橋下さんのツイッターから。

何でこういう連中は偉そうなんだ?「人文科学の素養がない」という最後の一言がなければ、こちらも真摯に議論してやるのに。

「こういう連中」の他に誰が含まれるかは不明ですが、私が含まれるのは間違いないので、お気を悪くされたのなら率直に謝ります。この点だけは申し訳ありませんでした。
こちらには傷つける意図はありませんでしたが、言葉の問題は受け取った側の感情の方が重要との観点に立てば、過失であっても傷つけてしまってことは事実として受け止め、この一点に関してのみは謝罪いたします。
相当に感情的にさせてしまったようで、自分でも驚いています。

しかし、素朴な疑問なのですが、「人文科学の素養が無い」というのは、それほどお怒りになることなのか。理解しかねます。私などは「お前には自然科学の素養がない」と言われたら、「おっしゃる通りです」と答えます。たとえば、「お前は自然科学の素養が無いから、素数の美しさが理解できないだろう」と言われても、事実なので傷つきません。
橋下さんは「社会科学の素養が前提の実務家」なので、その発想だと論理的だけれども、別の人文科学の観点から見ると違う、と指摘しただけなのですが。
私は昨日の論評で明確に「橋下氏を攻撃する意図はない」と断りを入れたのは、そのよって立つ論理の前提に対する論評に限定しているのであり、絶対に人格攻撃をするつもりはない、という意図でした。
ところが、橋下さんは完全に人格攻撃の領域に踏み込んでいらっしゃる。別に私は職業柄、人格攻撃されるのは慣れているので構いませんが、昨日とは別の意味で「論理的ではない」とは指摘させていただきます。

証拠として、橋下さんの御発言。

倉山氏を攻撃する意図はない。民主国家が成り立つ根源や統治のメカニズム、そして人間洞察というものへの素養がなく、ただただ書物での机上の論を頭の中でこねくり回す者なら、そういう発想になるのが普通なので。しかし現実離れした空論には、「それは違う!」と警告しなければならない。

これが人格への攻撃かどうかは読んだ方の感想にお任せしますが、攻撃であることは間違いないですね。意図はないのに攻撃されているとしたら、過失か、あるいは論理的ではないのいずれかなのですが、それは重要な問題ではないので指摘するに留めましょう。
それより、誰がどう見ても日本社会に影響力がある橋下さんの皇室観と憲法観には、多くの人が関心があると思われます。どうやら、橋下さんは「現実」「民主主義」を重視する方のようです。
この一事をもってしても、社会科学的な発想の実務家である、と受け取らざるを得ません。もしかしたら橋下氏からしたら人文科学的発想とは、「書物での机上の論」「現実離れした空論」なのかもしれませんね。「行列~」に出る前の時期だから相当古い話ですが、「サンデージャポン」でもその趣旨の発言をされていたのをテレビで聞きましたし。人文科学にそういう側面があるのは否定しませんが、それが全部でもないはずですが。

そもそも自分の皇室観の根拠を「現実」とした時点で、人文科学的には論理的とは思えませんね。少なくとも、皇室の歴史を語る際に「今の現実がこうだから」と主張する人は論理的とは認められません。それが許されるのは、橋下さんも認めておられる通り、日本国憲法の発想が浸透してからの話で、帝国憲法の発想が存在した時代まではそんなことを言う人は一人もいませんでした(この点は、美濃部達吉、清水澄、佐々木惣一の三人の戦前憲法学の泰斗に上杉慎吉を加えた四人が一致している)。何が論理的かも時代によって変わるのであって、古今東西普遍的な論理など存在する訳が無いことは、万人に理解できる話かと思います。

改めて確認の為に繰り返しますが、社会科学や自然科学がある価値に基づいて「何が論理的(合理的)か」を議論する手法であるのに対し、人文科学はその価値観そのものの合理性を議論する手法です。ちなみに、戦後の東大憲法学と戦前の美濃部・清水・佐々木の著書を読み比べると違いは一目瞭然です。「アシベの憲法」「四人組憲法」は前者の社会科学的発想の技術論であり、戦前の憲法学は人文科学に立脚した憲法学です。

橋下さんの皇室観の根拠には憲法観があるようですね。この場合の憲法とは、憲法学の教科書で教える実質的憲法ではなく、形式的憲法たる日本国憲法のようですが。しかもその解釈は、少数有力説の京都学派ではなく、明らかに多数派の東大憲法学ですね。

橋下さんの発言をざっと読ませていただきますと、東大憲法学の通説である、「天皇ロボット説」「元首首相説」に依拠されているようです。確かにこれらの説は憲法学では支配的見解ですが、少数有力説の批判も存在します。何が正しいかは、単純な多数決で決められないのは言うまでもありませんが。

橋下さんは、「今の現実は日本国憲法の民主主義の世の中が現実だから、現時点での多数決によってのみ皇室は存続される」とお考えのようです。橋下さんのツイートを読み直しました。

延暦寺の不滅の法灯を守ることに異議はない。しかし不滅の法灯は国民の総意に支えられる必要はないし、仮になくなったとしても日本の統治構造に影響を与えることはない。また皇室を不滅の法灯と並べるのは皇統のみを絶対視し、そこに皇族の人間性を全く顧みない考え方。

大日本帝国憲法下の教育を受けた者の影響がこれからますますなくなっていく令和以後の時代に、皇統だけで国民の理解を得られると思っているのだろうか。日本国憲法の価値観がますます強固になる令和以後の時代において、国民から支えられない皇室が成り立っていくとでも思っているのであろうか。

なるほど、私も「国民から支えられない皇室が成り立っていく」とは思っていません。だからと、一時の多数決で変えてはいけないこともあるでしょう。その最たる例が、一回の投票でルイ十六世をギロチンにかけたフランス革命です。この歴史的反省から世界の民主国では、国により中身は違えど、「いかなる民主主義的決定でも変えてはならない原理がある」とするのが多数派です。共和国のドイツがナチスと共産党が跋扈したワイマール共和国の反省に立って「戦う民主主義」を標榜しているように。

多数決の意義は最終的な意思決定の手法にすぎないのであって、民主主義の本質は多数決に至る前の議論にあることは自明だと思います。民主主義における議論の定義は、何が正しいかを皆で参加して話し合うことです。一時の多数など仮の決定にすぎないことは、大阪都構想に必死で取り組まれてこられた(ている)橋下さんご自身がご理解のはずです。
正直に申し上げて、何度多数決で負けても有権者に説得を続ける橋下さんやお仲間の方の姿勢には、感銘を受けておりました。

日本国憲法第一条の「総意」も一時の多数決と捉える解釈もあれば、歴史的に受け継がれた日本国民の総意とする解釈もあります。
後者は伝統的な(シャトーブリアンやバーク以来の近代的な日本でも取り込んでいる)保守の考え方で、「今の時点での多数派など、長い歴史の中での少数派に過ぎない」との価値観に立脚しています。
逆に前者ならば、皇室は国民が認めてやる限り存続させてやろう、との意味も可能ですね。そうした観点から、「日本は共和国だ」と唱える学者もいますが、橋下さんはそうした共和主義者に同調されるのでしょうか。さすがに実務で使えない説なので学界でも多数派ではないですが。なお、「皇族の人間性」は最近の憲法学で流行の、「皇族の人権」論ですね。

以上、橋下さんの皇室観とその立脚する憲法観は、現在の東大憲法学のように見受けられます。
よって、人文科学的素養に基づいての発言ではないように思えますが、いかがでしょうか。

なお、もしここまでお読みいただいての仮定ですが、乱文乱筆、あるいは意図せぬ失礼がありましたら、先にお詫びいたします。