宇多天皇。
日本じゃあ、二番目の黒猫好き!!!
検索の二番目がこれってのはいかがかと思いますが。。。
http://funabenkei.daa.jp/yononaka/neko/uda.html
さて、年が明けると内閣が秘密裏に女性宮家の創設を検討し始めて、再来年に導入するのですって?ここで最も大事なのは、仮に女性宮を創設するとして、そのお婿さんをどうするかですな。なぜかここで内閣も宮内庁もぼかしている。というか、考えが露骨。
「旧皇族は民間に入られて六十年たっている。国民の理解を得るのが難しい」だとか。
では、女性宮のお婿さんが単なる平民でも外国人でも構わないと?
なぜそこまで旧皇族を排除する?
答えは簡単。
皇室を滅ぼしたいからです。もしくはのっとり。←のっとられた状態を「滅びた」と言う。
旧皇族復帰なんかされた暁には、皇室のっとりができませんからね。
そんな単純な正論は、最初から排除するわけです。
もう一つ気に食わないのは、「創設」という言葉。
あのう。。。「創」という字は皇室にはふさわしくないと思います。
皇室は、「昨日と同じコトを明日も続ける」ことに意義がある世界であって、「新儀」は悪、「先例」が善、が伝統法ですから。
もちろん、歴史を積み重ねれば色々なことが起きるのですが、だれかが思いつきで「創造」「発明」をされては困るのですね。そういうのを「専横」と言います。
皇室に何かが起きた時にこそ、歴史に「先例」を求めるのですね。
近い時代に先例がなければ最終的に日本書紀に求めます。
それで良いのです。
皇室の議論をする時、日本国憲法など見るはずがないのです。
日本書紀の方がよほど法的規範としても重要です。
学者の役割とは「先例」を発見することのはずなのですが、
かの「有識者会議」と称する無識者どもは、発明を競っていたとしか思えませんね。
誰かが「イイコト思いついた!」は悪なのです。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/konkyo.html
↑この面子、皇室に関しての玄人、かろうじて日本古代史の笹山さんだけでは?
言って悪いと少しも思わないけど、この十人中九人より私の方が詳しいですし。
ついでに、近現代史なら笹山さんより私のほうが詳しいですから。
笹山先生にその言い方は、学界の先達に無礼?
あんなバカな報告書に名を連ねた人に無礼とは思いませんが、どうかしました?
↓証拠品。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/
この無識者会議で、平安時代の専門家のはずの所功先生が「宇多天皇は先例にあらず」とか言い出して、女系派の有力根拠として採用されているのです。
「女性宮家」の議論を考える上で重要なので、宇多天皇が本当に先例にあらずなのか、議論の材料を提示します。
宇多天皇とは、詳しい経歴は自分で調べられるので省略するとして、要するに平安時代の名君です。「菅原道真を登用した天皇」くらいの知識は学校で習います。
そうそう、遣唐使を正式廃止しましたね。(これが女系派の気に食わない?)
宇多天皇は定省王という皇族だったのですが(親王より格下)、臣籍降下して源定省となりました。しかし三年後に皇籍復帰し、定省親王として即位したという訳です。
宇多天皇が源定省だった時代に生まれた御子が後の醍醐天皇です。
つまり、旧皇族(かつて皇族だった方とその子孫の方)が即位しても構わない先例が二例あるわけです。
ここで女系派が金科玉条の如く繰り返す「たった三年じゃないか!六十年とは違う」という、
一見、正しそうな発言が、宮中先例としては何の意味も持たない理由の説明。
宇多天皇の場合。
臣籍降下=無数に先例がある。問題なし。
皇籍復帰=無数に先例がある。問題なし。
いったん臣籍降下した後の皇籍復帰次いで即位。=先例なし。普通に考えれば大問題。
では、皇族の即位は?=すべてが先例。
つまり、皇籍復帰した時点で臣籍降下の事実を無かった事にしてるに等しいのです。
公式の儀礼では、皇族と復帰した皇族で差別はありませんし。
もちろん、宇多天皇は「天皇のクセに一度は氏を持った奴」とか陰口とか嫌がらせはひどかったのは確かです。
では、生まれた時は臣籍にあった(皇族ではなかった)醍醐天皇の場合は?
特に問題にされていません。政治状況とか宮中の人間関係も好転していました。
要するに、一度皇籍にあったかどうか、生まれた時が臣籍にあったかなど問題ではないのですね。ただ天皇との血のつながりは重視されますが、その目安は
五世
です。
女系派の「六十年」などは、物の数ではないのです。こんなの古代史の常識です。
ところでお気づきになりませんでした?
皇籍復帰が臣籍降下をなかったことにする、で一番困る人たちが誰かを?
今の「旧皇族」の方々、誰のせいで皇籍を奪われたのでしょうか。
ダグラス・マッカーサーですね。
つまり、旧皇族の復帰とはマッカーサーのやったこと、戦後レジームそのものの否定になるのです。そりゃあ、戦後レジーム大好き人間は、旧皇族の皇籍復帰に猛反対でしょう。
よしんば、「宇多天皇は先例にあらず」が正しいとしましょう。
で、「女性宮」のお婿さんに旧皇族の方々ではなく、誰を連れてくる気か?
ぜひともそのお婿さんの条件とやらをお聞きしたいものだ。
女系派の言い分を聞いていると、黒猫好きが弾圧されているような気になって、思わず難しいことを書いてしまいました。
難しくてわからんが、詳しく知りたいという声が多数ならば、皇室先例話をシリーズ化します。
倉山先生
拝読いたしました。大変興味ある、そして重要な内容だと思います。
シリーズ化をぜひお願い致します。
ところで、天皇との血の繋がりについて、「五世」という判断基準を提示されていますが(継体天皇のことですね)、この五世とは男系のみでしょうか、それとも女系も含めて(つまり、男系としては遙か昔に別れているが、宗家から養子として男子、もしくは嫁として女子を迎えることで血の近似性を維持している場合)なのでしょうか?
単なる机上の話だとは思うのですが、ここを明確しておかないと今は良くても将来的に女系論者に突っ込まれるのではないかと愚考致しますので、ぜひ先生の見解を伺いたく存じます。
瀛様
この場合の五世は、臣籍降下をするかどうかの基準で、天皇当代を数えるかどうかで時代により政治状況により経済状況により議論が分かれることを指していたつもりでした。
このような有益な質問をお待ちして、わざと説明を省きました。
なお、「伏見宮家の系統は六百年さかのぼらないと天皇にたどり着かないんだ」という俗説の誤りは明らかですね。そんなに「親等」が離れるのがイヤなら、伏見宮家を廃止する方法などいくらでもあったのですから。
現代に至るまで残っていたという一事こそが、「いざという時は皇位を継ぐ」という前提であったという証拠ですね。
今、皇統の危機ですから、「伏見宮家の系統云々」の俗説に惑わされてはなりません。
とにもかくにも、女性宮家推進派は婿殿の資格をさっさと明らかにせよ。
倉山先生
早速のご回答有難うございます。
>この場合の五世は、臣籍降下をするかどうかの基準で
失礼ですが、「臣籍から皇族に復帰するかどうかの基準」の誤りではないのでしょうか?
もしそうならば、臣籍降下した皇族が皇籍に復帰するには降下していた「代」が重要なのであって、「年月」は関係ないということで納得がいきます。そして即位には臣籍降下していた過去は関係なく、その時に皇籍に属しているかが問題であると。
となると、継体天皇が即位したときは「臣籍降下してから五世以内だから皇族に復帰した」→「皇族だから即位した」というふたつの先例が生まれているような気がするのですが。
瀛様
二点、違います。
第一に、古代よりの先例では、皇族が増えすぎると血縁の遠い「五世」の皇族(時代により違いますが、五世ともなると「親王」ではなく「王」になっていたような)を臣籍降下させていました。これが基準という意味です。
臣籍降下された旧皇族(もちろん含・元皇族)の皇籍復帰もこの基準にならわないとおかしくなります。本と末の順序の問題です。
今回の場合は、「夷狄による臣籍降下の強要、宮家廃止」という世にもおぞましい、絶対に先例にしてはならない自体です。「たかが六十年、たかが二世」という観念を徹底しなければならないでしょう。
第二に、継体天皇は臣籍降下されていたのですか?あくまで皇籍復帰からの即位は二例だけのはずだったような。
>戦後レジーム大好き人間…
宮沢俊義東大教授8月革命説信奉者とすると相当すそ野が広いですね。
しかし、なぜ女系がダメかの論拠がちょっと弱すぎないか?
直接的に言います。
「男系維持は野心ある男を排除するためで、それが国体および皇室の本質的部分」と拙者は思いまする。
女系容認なら、拙者も砦主も独身であるがゆえに、皇室に入れる一抹の可能性はある。(もっとも民法上の一夫一婦制の前提である。内親王を妾にする度量?と不敬もあり得なくもないが。)
これは絶対にいけない。
拙者や砦主の素行や言動、品性が問題だからではなく、男系維持は「野心ある男が皇室に入る可能性」を撲滅する必要だからと思います。
皇室に入って、何がやりたいとかの野心を抱かれては、皇室そのものを危うくします。女性が入るにあっても様々な条件(ハードル)を加えてきたわけですから。
これ言っていいかどうかわかりませんが、
女性宮家が容認された暁にたとえば、外交がやりたいから、女性宮家の内親王の婿になりたいとか言う男が出てくれば断固排除すべきではないですか?
それがどんなに拙者や砦主に近い政治的スタンスであったとしても(皇室としては)断固排除すべしと、拙者は考えますが如何。
砦の皆さま
こんばんは。
大陸浪人さんの論点も旧皇室典範には、しっかりと想定され記載されている事項で、僕らは先人の英知に敬意を示し、顧みる謙虚さが今、求められるではないでしょうか。
歴史あっての伝統、伝統があって初めて権威を成すは自明の理ではないでしょうか。
権威とは伝統に他なりません。
悠久の歴史が伝統を成し、歴史に裏付けされた伝統こそ、権威と成りその権威が国体を成すのではないしょうか。
本問題の根幹は、日本が日本であった時代では、昨日と同じこと=当たり前であったことが、当たり前でなくなっている現代の病巣を垣間見得る事例の一つであり、この病巣を如何に除去し如何に当たり前を取り戻すかは、国民の抵抗力如何であって、この抵抗力とは知性に他なりません。
当たり前とは、昨日と同じことであり、昨日と同じことが慣習となり、慣習が文化と社会を創出するのであって、当たり前の喪失は文化の喪失と同意であると僕は考えます。
僭越ながら僕の理解では、日本とは「日(ひ)を本(もと)にする国」であって、日とは天照、これを本(元)にする皇室という存在があり、その皇室を中心に据えるからこそ日の丸が美しくたなびく日本という国名に相応しく、故に皇室が国体であると考えています。
それを僅か60年やそこら生きた伝統なき権威とは無縁の唯の人が、2千年に及ぶ悠久の歴史を無視し、変革し得る権利の所存を問い質したいと心底思い、こう思う時に現代人のエゴと傲慢は、おこがましいこと甚だしいと怒りと憂いを感じる次第です。
TPPに怒る国民は、国体護持と文化の喪失に対し、烈火の怒りを表明するべきではないでしょか。TPP反対論者には、日本の原点、オリジンにも着眼してほしいとせつに思います。
些か大袈裟かもしれませんが、砦に集う良識ある国民の連帯こそ、僕の幸福であり、希望であると僕は思うのです。
最後に、僭越ですが、皆さんと共に考えたい問題提起です。
先生は、僕が見るに学界に喧嘩を売っているようにお見受けします。
先生は、学者です。学者を商いとする方が学界に喧嘩を売るリスクを僕らは考える必要があるのではないでしょうか。
我が身可愛さに阿る人は多くとも、荊の道をわざわ選択する方の勇気と覚悟を僕らは僅かでも共有すべきではないでしょうか。
先生の覚悟を知る時、僕らの義務と任務も自ずと見えて来るように思うのです。
名も無き僕が偉そうに説教などおこがましいのは十二分に承知しておりますが、最近の先生のご発言を拝読する度に思うとことを思いのままに書いて見ました。
大陸浪人殿
まあ、ここは女系排除の理由を書く記事ではなかったので、話を明確にしてくれてありがとう。
今の女系論とか女性宮家創設とか、二十年前に大学生の私が冗談で頭の体操として考え出した一案だったのだけど、本当にそんなバカをやる連中が出現するとは思わなかった。
思想云々でなく、そういう野心家を排除するのは当然でしょう。
先例がない。
佐伯様
我が意を得たり!とか言うと差し支えるのでノーコメント。笑
倉山先生
お返事ありがとうございます。書き込みが遅くなってしまって申し訳ありません。
>臣籍降下された旧皇族(もちろん含・元皇族)の皇籍復帰もこの基準にならわないとおかしくなります。本と末の順序の問題です。
先生のお話はこういうことでしょうか?
すなわち、臣籍降下の基準となった天皇より十代(皇族として五代、氏族として五代)までが皇籍復帰の限界となる。
臣籍降下の基準を皇籍復帰の基準として準用しておられるようですが、先例がないかぎり根拠としてはやや薄弱ではないでしょうか?五世以内に皇籍復帰した先例はあるのでしょうか?
それとも、「臣籍降下の基準が五世であったこと」と「継体帝が五世孫だったこと」などから、「先例では皇族の身分については『五世』が判断基準だった」ということなのでしょうか?
>第二に、継体天皇は臣籍降下されていたのですか?あくまで皇籍復帰からの即位は二例だけのはずだったような。
継体帝については『紀』を読んでみましたが、父は「彦主人王」、本人は「男大迹王」となっていますので臣籍降下していないようでした。失礼しました。
ところで、質問ですが、
明治元年から22年(大正天皇立太子まで)の皇位継承順位第一位はどなた様なんですか?
その御方は、男系でどのぐらい離れておられましたか?
世襲親王家だとしても、単純に男系でのカウントは?
瀛様
天皇より十代後の臣下を皇籍復帰させるとは言っていませんが。
ということで、固有名詞的言及は何を言っても不穏当なので無返答でご了解ください。というか、答える必要は上記の理由でありません。
私が確認したところですと、順徳天皇曾孫の忠房親王の皇籍復帰の先例があるそうですね。承久の乱の影響です。
大陸浪人様
その質問の御意図は?私を事典代わりに使われても。。。
倉山先生
なるほど、この話はあくまで「代」と「年」のことだけだったのですね、失礼いたしました。
>固有名詞的言及は何を言っても不穏当なので無返答でご了解ください
確かに、固有名詞的言及は危険でした。
ご本人に影響があったらマズイので、このコメントおよび9のコメントは削除していただけると助かります。
戦勝論の安濃さんが、倉山先生へ反論を寄せています。先生も反論してください。
2011年12月27日14:51
カテゴリ
保守系歴史学者の正体
バナークリックしたら、嫁さん実家から戻るかもしれないよ。
面白いブログを見つけたので取り上げる。
歴史学者である倉山満氏が、氏のブログで開陳した見解、「アジア解放論は後付け」という歴史観に違和感を覚えた、ブログ読者 ”OS生”が疑問を投げかけたコメントと、それに対する倉山満氏からの反論である。
今日ここで取り上げた理由は、倉山氏の見解が日本の歴史学者達による”大東亜戦争評価”を代表しており、さらに、彼らが何故、私が唱える”戦勝解放史観”の受け入れを拒否し続けるかという、その理由を明確に表しているからである。
まずは”OS生”から倉山氏への質問である。
10.倉山満先生
<いつの間にか言い出したのが「有色人種の解放}!>の文言に大きな違和感を感じましたので一言申し述べます。
戦後教育を受けて来た日本人の殆んどは、相当な保守的学者でさえ、大東亜戦争の戦争目的である「有色人種の解放}が昭和18年(1943年)11月6日の大東亜共同宣言以降、日本の敗色が濃くなってから慌てて唱え始めたと洗脳されて今日に至っています。
しかし事実は昭和天皇による「開戦の詔勅(昭和16年12月8日午前11:45)」とほぼ同時に、大東亜戦争開戦に当たっての「帝国政府声明文」が発表され、そこに明確に「有色人種の解放」が謳われています。この事実は昭和16年12月9日付けの朝日新聞夕刊に掲載されていることを、安濃 豊氏が南方に出征された亡きお父上の言葉を手掛かりに平成20年に発掘されました。
http://blog.livedoor.jp/giranbarekanjya/archives/51005582.html
該当部分は以下の通りです。
「・・・而して、今時帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすの已むを得ざるに至る、何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亞を明朗本然の姿に復し、相携えて共栄の楽を頒たんと冀念するに外ならず、帝国はこれら住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり・・・」
この事実が専門学者の検証に耐え得るものか否かは分かりませんが、私はマイクロフィルムの写真まで添えた安濃 豊氏の事績が、長年にわたる洗脳教育の迷妄を解く一助になると信じています。お若い倉山先生が歴史家としてこの辺りの事情を明確にして頂ければこれほどうれしいことはありません。御活躍をお祈り致しております。
OS生
Comment by OS生 — 2011年3月4日(金曜日) @ 19時01分41秒
そして次に倉山氏からの上記”OS生”への返答です。
11.OS様
当時の政府(含・陸海軍)には統一した国策はありません。
昭和十六年の段階では「有色人種の解放」は作文です。
ただし、本気で信じていた人もいました。
だから「いつのまにか」戦争目的になっていました。
これは善悪の問題ではなく、利巧か否かの問題から事実特定しました。
繰り返し強調しますが、「聖戦の大義」「有色人種の解放」はかなりの数の日本人にとって本気の真実でしたが、少数の政府当局者の無能により、最初は国策にならず、官庁御役所的「作文」でした。
Comment by 倉山 — 2011年8月9日(火曜日) @ 20時37分17秒
以下が倉山氏のブログURLであるから、読者の皆さんは参照して欲しい。
http://www.kurayama.jp/modules/wordpress/index.php?p=531
それでは私こと安濃豊が倉山氏へ反論しよう。
歴史学とは過去の文献を解析することにより学問として成り立つ。それゆえ歴史の発祥とは文字の発明以前には存在しない。歴史以前を研究するとしたら、それは考古学であり神話研究である。それゆえ中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者である司馬 遷(しば せん、紀元前145年 – ?)が歴史学の始祖と考えられている。何故ならそれ以前に歴史書は存在しないからだ。
歴史的書物を後世の歴史家が”勝手な判断”で嘘出鱈目であるなどと決めつけることは、歴史学者自らが歴史学を否定する行いに等しい。帝国政府声明文を”作り話”などと決めつけるなら、米国の独立宣言も共産党宣言も”作り話”と決めつけることが可能となる。それでは歴史学は成り立たなくなる。
歴史的文献を何の根拠もなく”作り話”などと決めつける輩に歴史学者を名乗る資格など無い。
ビルマは1943年8月1日、日本軍による軍政廃止宣言にともない、バーモウを首班として独立し、大日本帝国はただちに新生”ビルマ国”を承認した。
戦争目的は亜細亜解放であることを明記した”帝国政府声明文”の発表から僅か1年と9ヶ月後に声明文で宣誓したとおり、大日本帝国はアジア解放を成し遂げている。何処が後付けなのであろう。
作り話であったなら、現実と成ることなど在るはずがない。そして日本軍の元でカンボジア、ラオス、フイリピン、自由インド仮政府が戦中に独立し、戦後にインドネシア、インド、ベトナムが独立を果たす、さらに亜細亜各国の独立に触発され、アフリカ各国が独立を果たす。結果として、1965年までの戦後僅か20年間で、地球上に存在する全有色人種の解放と人種平等を実現している。何処が後付けなのだ?
倉山氏の手法によれば、米国独立宣言はインディアン殺しのための言い訳であったと決めつけることも可能となるし、共産党宣言は労農階級を共産党の奴隷とするための言い訳に過ぎなかったと断定することも可能となる。そして、現実の歴史経過は米国政府による組織的なインデイアン虐殺と、共産党による労農虐殺を示している。
具現化された帝国政府声明文を作り話と決めつけるなら、倉山氏は少なくとも、米国独立宣言も共産党宣言も民主党のマニフエストのように、インチキ出鱈目文書であると規定しなくては成らない。何故そうしない?
私は科学者ある。もしも科学者が倉山氏のような言動を取るならば、その行為は、コペルニクスの法則、ニュートンの法則、アインシュタインの相対論を”作り話”であると決めつけるに等しい行いである。科学の世界ではあり得ない話である。そのような言動がまかり通るなら科学は崩壊してしまう。
私が発見し看破した”帝国政府声明文”を日本の歴史学者は無視し続けている。中には倉山氏のように”作り話であった”などと、歴史学者にあるまじき行為を行う輩まで出現した。
実は、今月(平成23年12月)関西の保守系歴史学者の集まりで、私の”戦勝解放史観”を講演する予定であったが、その後主催者からは何の連絡もなく、事実上キャンセルされた。
歴史学者にとって”帝国政府声明文”は真に不都合な真実のようである。この真実を認めると、過去の自らの業績を反故にして、ゼロから歴史検定をやり直さなくてはならない。それが怖いのである。これを自己保身とも言う。
大東亜戦争とは、我が日本民族が、有色人種解放を決意し、その決意を決行し、実現した戦いであった。そのため、我が民族は二十五人に一人が命を捧げた。あの戦争こそは、我が日本民族がその2600年の歴史と文化伝統を反故にすることも厭わず、民族絶滅まで覚悟して戦ったのだ。
大東亜戦争こそ民族の誉れである。その誉れを”作り話”であったなどと宣い、その真実を自己保身から無視し続ける所謂 ”歴史学者”よ、君らに”学者”の名を冠する理由は存在しない。ただちに学会から去れ!日本人であることを辞めよ!
バナークリックしたら宝くじに当たるかも?
.
giranbarekanjya
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倉山フアン様
その安濃という人、どこまで頭が悪くて国語力がないのですか?
科学者を自称しながら、そこらのネトウヨなみに国語力がないですね。
まともな指摘なら本編記事で取り上げるのですが、二言で十分です。
その一 私がどこで「出鱈目」と言いましたか?
その二 官庁的お役所「作文」の意味がわかっていますか?
このどちらかで十分なのですが、二撃加えてしまいました。
今の私、これ以上そいつがウダウダ言うようなら死体の陵辱までやりかねないので、これでご容赦を。その者のブログだかのレスで喧嘩を買ってあげてもよいのですが、間違いなく時間の無駄でしょう。
延々と関係のない話をして逃げてごまかすことができるネットだと、人の話を聞かないで自説を繰り返すのがその手の輩の手口なので。
その人が、お問い合わせフォームに「時間と場所を決めて話がしたい」という果たし状を送ってきたなら、出向きますよ。そういう時、昔の右翼さんは「何があろうと暴力は振るわない」とか約束をしたらしいので、それで良いですよ。
悪いけど、その人のオツムの程度なら、まあもって一分でしょうけど。
本当につまらぬものを斬ってしまった。
瀛様
問題の二行、削除しました。
正確に言うと、「年」ではなく「代」ですね。未来において寿命が延びて、日本人の平均寿命が百二十五歳とかになったときも通用する議論としては。
倉山先生
>問題の二行、削除しました。
患部のみ切除していただき、ありがとうございます。
>正確に言うと、「年」ではなく「代」ですね。未来において寿命が延びて、日本人の平均寿命が百二十五歳とかになったときも通用する議論としては。
先生のコメントを拝読して、いかに「年」という基準が曖昧で恣意的に使われやすいものか、再認識いたしました。
砦主より質問の意図のご下問を頂戴しましたが
意図というより、
単純に(当時は)皇位継承第一位とされた方が知りたい。
浅学ゆえ知識を持たぬ浪人の戯言かもしれませぬが。
なぜかというと結果としては、後の大正天皇が立太子され、事なきを得たが。
後の大正天皇ならなかった場合の、優先順位に関して、不勉強ゆえ知識を得られませぬ。
「当時としての」優先順位は、今次問題に関する示唆を何かしら与えないか?と考えたまでです。
大陸浪人様
私の拙い知識を元にお答えいたしますと、
明治22年の皇室典範以前に、皇位継承順位と言う概念が存在しなかったと思います。
誰が跡を継いで行くか、それが漠然としていたからこそ、南北朝のようなこともあれば、
幕府へのあてつけに女帝を立てるということもあったわけです。
皇位継承を明確化する儀式として、立太子の礼が行われることもありましたが、一時期は立太子の礼なく即位に至った時期もあったはずでして
いつも明確化されていたわけではありません。
明治22年2月11日に、大日本帝国憲法の発布と同日に皇室典範が勅定され
同年11月3日に、のちの大正天皇は立太子の礼を受けております。
現在の皇太子、徳仁親王殿下は平成3年にすでに立太子の礼を受けております。
通常で考えれば、明治22年まで、皇位継承がどうなるかは明確化されていなかったと見るべきではないでしょうか。
すみません、専門外ですので、間違いがありましたら、どなたかご指摘くださいませ。