城山三郎。経済小説のさきがけである。私の専門である昭和史で言えば、濱口雄幸と井上準之助の友情を描いた『男子の本懐』など、筆力はすばらしい。二人の非業の最期を描く描写など、感涙すらそそる。どこまで事実でどこまでが創作かの境界が不分明になるほどである。これは歴史小説家に対する賛辞のつもりである。まあ、濱口や井上ならこういうこと言いそうかな、と思わせられるという意味で。
この筆力と言う点では、悲劇の外交官とされる廣田弘毅を描いた『落日燃ゆ』などは、嘘だとわかっていても(←ここ重要)泣けるのであるから、文章力は圧倒的である。
事実関係に関しては、政治家賛美本の白眉とも言うべき、あまりにもあまりにもな信憑性だが。
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さて、件の友人曰く、
「こんど『官僚たちの夏』がドラマ化されるらしいねえ。佐橋滋という実在の通産官僚をモデルにした作品らしいけど、本当にこういう話だったの?やっぱり、公務員制度改革とか官僚機構のあり方が問題になっているけど、今こそこういう官僚が必要だよ。他にも城山三郎のお勧め本を教えてよ」と。
まあ、確かにその昔、NHKが中村敦夫主演でドラマ化していたような。強気を挫き、弱きを助け、権力に阿らず、常に国家の事を考える、清廉の官僚、という描き方をされていたような気がする。とにかく、官僚の理想像として描かれていたような、とだけは覚えているのだが。
このようなきっかけで、『官僚たちの夏』を読み返したのである。
実は原作を読んだことがなかった。学者とは趣味以外で、特に歴史学者は、歴史小説は読まないものなのである。なぜ?学界には格付けというものがあって、小説家の書いたものを引用しようものなら、たちまちお約束事を破ったものとして無視される。だから、小説を読むということに時間をかけたがらないものなのである。
ただし、日本共産党とかかわりが深い松本清張だけは例外。彼の陰謀論を評価する歴史学者は、実は多い。違和感があった。
さて、本題。『官僚たちの夏』の読後感を一言。
何だこれは??? 血も凍った。
城山が描く「理想の官僚」としての『官僚たちの夏』の主役の風越信吾。救いようがない人物ではないか。なぜこれが理想なのだ?それとも城山は悪意を向けているのか?
もはや、史実の佐橋滋がどんな人だったか以前の問題である。(つづく)