その昔、菅原裕という偉い偉い弁護士の先生が松本烝治というこれまた偉い偉い博士の元にお手紙を出しました。
その中身は「今の日本国憲法は無効ですよね」と同意を求めるもの。
菅原弁護士は自信満々で、当然松本博士に褒めてもらえるものと思っていました。
ところが返事は
「そういう非現実的な手法ではなく、憲法96条2項の改正規定を緩めるのと、どうしても問題がある9条2項の削除を先行すべきでは?」と。
これでもかと期待がはずれた菅原弁護士がもう一度手紙を出そうと思っていたら、1週間後に松本博士お亡くなりになられたとか。
この話を少し解説しておくと、松本博士は占領軍の憲法押し付けに徹底的に抵抗した人です。
当然、本来ならば日本国憲法など無効だとわかっている訳です。日本の伝統法にも国際法にも反しているので(この辺りは『だれころ』をどうぞ)。
ただ一旦、憲法として定着してしまっているのは事実で、しかも何が何でも条文を変えたくないという勢力まで出現して、
しかもその人たちは衆議院か参議院のどちらかで三分の一を占めれば、その我がままを通せてしまうのですね。
事実上変えられないし、ましてや「本来は無効だ」と言っても通らないならば、
先に改正規定を緩和し、同時にどうしても困る条文だけを変えてしまおう。
本当の自主憲法はその後で創ろう、という考えです。
以上、96条を考える大前提でした。元々の憲法96条改正とは、本来の憲法を制定する前段階の先行的手法です。
気がついたら、Amazonで憲法本の4位だった。
(講談社、税込1680円、好評発売中)
かみ砕いてしまうと、
8/15に暴力騒動なんか何もなくて約一名そういう妄想を抱いている頭のおかしい宮なんとかという人がいるけど、できちゃったものはしようがないから一旦有効に改正されたものとして、あるべき憲法の姿に修正していこうということですか?
真の改正の時に、過去に遡って無効を宣言する、という方法もありますね。(憲法復元)
倉山さん
こんばんは。藤沢です。
(日本国憲法)96条は、大日本帝国憲法73条、松本私案と比べてみてもどうも怪しい感じが致します。特に2項は気になります。
マッカーサー草案原文
「amendments when so ratified shall immediately be proclaimed by the emperor,in the name of people,as an integral part of this constitution.」
1)何故、わざわざ「in the name of people」の一節が挿入されているのか?
2)「as an integral part of this constitution」には、何となく他意を感じます。(占領軍から見た変な改正は許さない、みたいな・・・)
大日本帝国憲法73条と比較しても違いは明らかです。「勅命」は多分この話の急所だと、私は見ています。
・・・これから先しばらく、息の長い展開になりそうですね。亡国前夜シリーズを越える位の話になりそうな予感もしています。これからも宜しくお願いします。それではまた。
私は日本に生まれて良かったと思います。
なぜなら、日本は戦争を放棄しているから。
平和維持の面で変えるべきでない部分はもちろん、
一方で時代によって変えるべき部分もあります。
そして、変える変えない以前に
私たちが憲法について議論する機会を増やすことが必要だと考えます。
今の96条では発議することさえ難しいです。
地震から3ヶ月。
臨機応変な対応が求められる時代に応じて、
憲法も皆で考え、変えていく時期なのではないかと感じます。
むかしむかし、パギジア共和国という国がありましてね。
一応書評を書いておきました。
藤沢様
1)そういう趣味です。
2)占領軍、怖いことにアメリカの国益すら飛び越えて、人類全体への祈りを考えているのです。
ハルカ様
「だれころ」読みました?今の日本は「戦争放棄」なんかしていませんよ。
仙台様
ブログでの書評ありがとうございます。
それはそうと
>頭のおかしい宮なんとかという人
こういうところは、はっきりと宮沢俊義と書いてください。
「ただでさえリテラシーが高すぎて、書き込みずらいレス」
とか悪評が立っていますので。
ハルカさま
>私は日本に生まれて良かったと思います。
>なぜなら、日本は戦争を放棄しているから。
戦後の日本に徴兵制がなく軍隊に入る必要がないから、実感してないと思いますが
日本国が「戦争を放棄」しているために、
誰かが治安を維持しているのではないでしょうか?
日本人の平和・平穏のために、アメリカ人なり外国人が犠牲になることについては
どう思いますか?
そして今、どこかのルーピー君や、イライラ君のお陰で
そのアメリカのモチベーションが下がり続けているとしたら・・・。
そして「戦争の放棄」の美辞麗句は、
一歩間違うと外からは「責任の放棄」に見えているかもしれませんよ。
日本人は、楽しているのではないですか?
「戦争を放棄」しているので、クウェート侵攻では、資金だけを送りました。
その結果、平和に貢献できたのでしょうか?
なお「戦争」は、1945年以降は世界で1件もないはずです。
その理由は、倉山先生の本をお読みください。
そして「戦争」ではないが故に、寧ろ惨たらしい世界になりつつあることも
よくわかった方がいいですよ。
決闘でなく喧嘩、そして闇討ちになっている、そんな世の中が「平和」でしょうか。
最後に、私が「戦争を放棄」と「」付きで書いているのは、日本国憲法第9条にはそのような書き方をしていないからです。
「戦争を放棄」というより「武力を放棄」でしょう。
(自衛隊は武力でなく、警察力ですね、仙谷さんにとっては「暴力」でしょうか)
条文主義に陥るのも良くないですが、憲法に書かれている内容とその背景を、簡易に解釈しないほうがいいと思います。
事実だとすれば、政治による殺人、震災の副次被害です。
これから被害を乗り越えてどうやって生きていくのか、
そのために必要なものを用意すること、そして励ますこと、それが政治じゃないんですかね。
国民を見捨てている・・・これが「国民が主役の政治」ですかね。
悲しみがこみ上げます。
ご冥福をお祈りします。
これ以上、絶望する人が増えませんように。
相馬の酪農家自殺、「原発なければ」と書き残し
読売新聞 6月14日(火)3時9分配信
福島第一原発の事故で、牛を処分して廃業した福島県相馬市の酪農家男性(50歳代)が「原発さえなければ」と書き残して自殺していたことが13日、わかった。
関係者によると、男性は今月11日、小屋で首をつった状態で見つかった。小屋の壁に白チョークで「仕事する気力をなくしました」「残った酪農家は原発にまけないで」と記していた。
男性が住む地区は当初、加工前牛乳が出荷停止となり、男性は乳を搾っては捨てていた。今月初旬までに約30頭を処分した。男性は親の代から酪農を続けており、姉は本紙の取材に「(弟の死は)子どもたちのことを思えば話したくない。しかし、原発の件は訴えたい」と語った。
酪農家仲間だった男性(51)は「避難区域ではないため、補償はないだろうと繰り返していた」といい、農業男性(53)は「連絡をとるたびに『原発ですべてを失った』と悩んでいた」と話した。
占領憲法の精神に従って戦後日本人が放棄したものは、戦争でも武器でもなく、己の真心に対する己への忠誠に準ずる正義に基づいて、大事なものを守るためには、生命を賭してでも戦うことも辞さない覚悟を持った生き方なのでしょうか。
そして、戦争は、如何なる国家も一方的に放棄できない。なぜなら、相手国が決断すれば、戦争は必然的におきるのだから…。
「武力解決を極力回避する」思想は「戦後憲法」に始まったのではなく、聖徳太子の十七条憲法の「和を以って、貴しと為す。」から初まっています。
これは古事記や日本書紀で描かれているイザナミの「あなたの国の人々を一日に千人、くびり殺します。」という言葉やヤマトタケルの東征など日本を統一するための戦争で流された血の誓いなのです。
あ、6は私です。
以下の「戦争」の定義、「だれころ」と同じです。
かしわもち様
一応、「戦争を放棄」していました。いつのまにか、すべての「国権の発動たる戦争」だけを放棄することになりましたが。常人の国語力では理解できないのが、日本国憲法の「ホントに怖い」ところです。
NAO様
上記文脈でお読みください。十七条憲法と日本国憲法の思想はまったく異なります。
佐伯様
1945年国連憲章によって、「戦争」は根絶されました。
これは極めて不幸なことだと思います。
という前提で佐伯様のレスにつなげるといかがでしょう。
倉山先生
こんばんは。レスありがとうございます。
「だれころ」勿論購入済みなのですが、毎度の都合で現在手元になく未だ読めておりません。申し訳ございません…
入手次第、拝読させて頂きます。
1945年国連憲章と戦争の根絶と説く、そのココロは、決闘という精神性を有する戦争と云う名の制度・手段の根絶であって、その制度の根絶は事案解決の手法喪失を招き、精神性なき武力行使は暴力・喧嘩である故、結果的に禍根を残すことになるということでしょうか…
兎に角、早く読みたくてウズウズしています。