明日の学会発表の準備がほとんど終わったので、見直しの合間です。
ちなみに今日は私の誕生日です。
さて、昨日は何の日だったかご存知でしょうか。昭和五十一年十二月十七日、三木内閣退陣表明の日です。この日がなぜ大事かと言うと、永田町内親米派が親中派に敗北した日です。
え?あの三木が?と普通の人は思うでしょうが、とりあえず外伝開幕。
松野頼三、小坂善太郎、福田篤泰、早川崇。彼らの共通点は何であろう。
三木おろしが吹き荒れる中、昭和五十一年九月十五日の三木改造内閣に入閣した政治家である。派閥の領袖に喧嘩を売って、三木内閣に馳せ参じ、その後、二度と要職に就けなかった。
そして正しい意味での親米派であった。彼らは大臣在任時、日本が米国に対して対等の自由主義国であるためには国防努力と外交努力をしなければならないと考え、実行した。
三木内閣を考える上での前提がいくつかある。
一、三木内閣は、最高の真人間と最悪の売国奴の連立政権であった。
後者に関しては今回は触れない。
二、三木本人はあらゆる意味で危険な、バルカン政治家であった。
内政、外交、政争、あらゆる面でそうである。対米ソ中対等外交などを打ち出していたが、
要するに頭の中がヴェルサイユ体制で止まっているのである。軍事抜き帝国主義である。自衛隊が帝国陸海軍くらい強いと思っているから、平和主義などを打ち出しているだけである。(幣原外交的に)
三、三木の政権基盤は、青嵐会であった。
現在まで問題になっている靖国参拝を見よ。三木内閣の「八月十五日私的参拝」は、「八月十五日」は青嵐会に、「私的」は内閣法制局に配慮しているのである。
ただし、この時の真田法制局長官は超重要人物であるが、何を考えて行動していたのか、実は何一つ証拠がないので、しかも二通り以上の仮説が成立するので、それ以上は踏み込まない。
一つだけ弁明的に事例をあげると、ロッキード事件に関して、「首相には灰色高官の名前を公表する権利がある」などと異例の発言をしたが、これは援護射撃なのか、背後から攻撃したのか、私には判断がつかない。ついでに言うと、三木は法制局と検察庁以外の官僚機構をすべて敵に回している。
田中派が何をやろうと青嵐会の政策を取り入れている以上、福田赳夫もついてきているのである。福田派内では、親中・親田中角栄・三木おろし路線の園田直V.S.親米・反田中・政権禅譲路線の松野頼三が激しく角逐し、政権に眼がくらんだは良いが、権力をわかっていなかった福田が松野を追い出すということになるのだが。
ついでに、石原慎太郎(実は、この時まで三木シンパだったのである。当時は誰でも知っていたが)が都知事選挙に負けた時に冷たい仕打ちをしたから、青嵐会が怒ったというのもあるが。
さらについでに、三木おろし最大の功労者は新自由クラブである。
三木内閣総辞職により、最も「保守本流」にふさわしい政治家たちが討ち死にしてしまったのである。その後の三十年間、田中角栄と竹下登が政界を支配した。二人とも対中友好姿勢を強化した。対ソ冷戦最高潮期、米中は接近した。よって日本への中国共産党の侵食は、米国の政策とは全く矛盾しなかった。その構造の中で、竹下登がどれほどの権力を振るい、どれほどの売国行為を行ったかは本編の通り。
親米派が初めて本気で反撃を開始したのが、九八年総裁選である。梶山静六は善戦したが、竹下登の牙城は高かった。
竹下登死後、森内閣では親米派と親中派が互角の抗争を繰り広げた。最初の有効打が、福田官房長官就任であったことを皆さんお忘れである。中川官房長官の辞任に際し、小泉純一郎清和会会長が野中広務の意向を無視して強行したのである。
渡辺乾介によれば、総裁選の最中に小泉は「野中と古賀に殺されます。総裁選で負けたら脱党しますから、助けてください」と小沢一郎に土下座したとか。
宮川隆義によれば、総裁に当選した小泉は裏公約として
「鈴木宗男、野中広務、古賀誠の三人は必ず殺す!」と決意を口にしたらしい。
勉強嫌いで知られる小泉が、熱心に松野頼三に歴史を聞いたのが三木おろしだったそうである。あまりに重要で、あまりに長くなるので省略したが、現在の日本政治の原点は、三木おろしにあるのである。
そして再び、親中派の勝利が目前である。
たぶん、上記の内容、相当の予備知識があっても理解するのは厳しいと思います。しかし、本当の知識とは苦しみながら身につけることが必要な時もあります。常にわかりやすくマニュアル化されている訳ではありません。何がわからないかがわかる、それは半分以上わかったのと同じです。
真面目に勉強すれば面白さを感じ取れるはずです。
賢者は歴史に学ぶ!
基本中の基本かもしれませんが、青嵐会とはどのようなものでしょうか。
ナベツネが宮内庁批判していましたね。
やっぱりナベツネは元共産党だから天皇に対する敬意も忠誠もない人なんだということがあらためて分かりました。
まあどちらを批判しようが批判対象となる二つは敬意も忠誠もない方々なのですが。
あと福田康夫は実は隠れ常識派なのでは…
倉山さん
こんばんは。藤沢秀行です。
私事で恐縮ですが、週末は出張しておりました。シリーズに声援を送りつつ書き込みが遅れてしまい、すみませんです。
「おお!シリーズ復活!しかも番外編」と思いながら読み進めると、超難解な話でした。ですが、単なる質問では芸がないと思いますので、少しでも何とか頑張って書いてみます。論点が多いですので、福田康夫官房長官就任とその周囲についてに絞ります。
このあたり、派閥抗争と個々の思想が何となくクロスしながら話が進んでいくような漠然とした感じがしています。福田康夫を親中派として見るなら、どうしてこれが有効打になるのかというのが最初の疑問でした。
推測するに、おそらく野中の意向は尾身幸次だったのではと思います。人脈や経歴を含めて、森派の中でも橋本派に近い人というのがあったと思われます。
(尾身に外交思想などはないと思われますが)。
この点と関連して、私も今ひとつ読みきれていない事があります。それは、沖縄(に関する利権)の話です。この話でいくならば、小泉は何故、尾身の官房長官を阻止する一方、自分の内閣で尾身を沖縄担当の大臣にしたのかが、何となく矛盾した印象を受けるのです。勿論、きちんとした解があると思うのですが、私の力が届いていません。
所謂、沖縄利権と呼ばれるものについては、当初より経世会が握っているというのが定説です。事情に通じた人間を充てるという意味で良ければそうだとも思いますが。
まとまりの悪い話で申し訳ありませんが、いずれにしてもこの件、単に普天間飛行場の問題だけではなく、外交問題から西松建設事件まで幅広く関係した根の深い話と思われます。少なくとも私たちのレベルでは、沖縄に米軍のプレゼンスがある事の意味を広く議論していく必要があるのだと思っています。
個人的には、住民の生活被害は気の毒な事だとは思いますが、外交・安全保障の点において、安易な移設には反対です。
長い話の上、結論が平凡ですみませんが、私の力ではこれが限界でした。
アマチュアではありますが、勉強は根気よく続けたいと思っておりますので、今後とも宜しくお願いします。それではまた。
尾身幸次は、総裁選になると先鋒をやらされてますね。その論功行賞が沖縄大臣というのも。当時、田原聡一朗に「あまりにも軽量ですね」と突っ込まれていました。(わざわざ)沖縄担当大臣にした、ではなく、そのような軽量大臣しかあてがわなかった、が正解でしょう。
あの選挙、YKK三派以外、すべて派閥分裂選挙です。実は基礎票の段階で小泉が一位だったのは当時誰も指摘していませんでしたが。
倉山さん
こんにちは。藤沢秀行です。
回答有難うございます。よく分かりました。
あの時の総裁選、いきなり地方票の重みが増したのですよね。以前、総裁選についての解説を頂いた時に言及されていた事を思い出しました。
まあ、経世会にとっては、小渕の後継が決まらなかった事が大きい(致命的)でしたね。確かあの時は経世会の若手議員が橋本支持に同調しなかったのでしたよね。青木にとっても間近に控えた参院選が最大の関心事でしたし。
本来ならばこの項、親米と親中とは何か、そしてその事の持つ意味は何かということが本線だとは思いますが、私は世界史と国際政治は初心者レベルですので、浅はかな言及は避けたいと思います。
歴史から学ぶという意味では、日英同盟とその解消の過程が結構重要な補助線になり得るのではという思いがあります。立証する力がないので、単に思っているだけと言われてしまえば返す言葉はないのですが。
倉山さん、過去の記述を読み返して見ても、日英同盟についての言及が不思議と見当たらないですね。いまリクエストという意味ではないですが、日本人全体の知的レベル向上のためにも、また色々と教えてください!
今日はめでたい日ですのでこの位で。それではまた。