今週の『SAPIO』の「ゴーマニズム宣言」で小林よしのり氏が一本分を丸々費やして、竹田恒泰氏への批判を展開しておられる。この砦にレスをつけてくださっている方々の中にもどう反応してよいかわからない方も多いかと拝察いたしますので、私の見解を述べたいと思います。その上で皆さんがご判断して頂ければと思います。
個人的には、小林よしのり氏は間違いなく歴史に名を残す漫画家として尊敬しています。ちなみに『厳格に訊け!』が一番好きですよ。『ゴー宣』の中でも「南の島に雪が降る」とか、涙なしに読めない傑作だと思いますし。現実と作品の境界を越えて緊張感ある世界を作り出すという意味では、梶原一騎以上の存在だと思っています(これ、マンガに詳しくない人のために解説しておくと、最大級の褒め言葉です)。
また、彼が日本を思う立場で言論活動を行っているのは間違いないでしょうし、実際にこれまで多くの言説で世の中を動かしている以上、敬意を払う存在だとは思います。一部に「商売でやっている」との批判があり、御本人も過剰に反応しているところもあるのですが、それは別に構わないでしょう。「商売として成立する」ように、色々な運動を盛り上げるということ自体は、良いことであってもそれ自体が悪ではないのですから。小林氏の本心が本当に純粋か不純かなど、本人しかわからないのですから、彼の言動に関してのみ各々が賛否の立場をとれば良いだけの話なので。
その上で、私が親しくさせていただいている竹田さんに関して、「これは一線を超えて人格攻撃になっているのではないかな」と思われる微妙な表現が散見したのは如何なものでしょうか。
「「偽ブランド」で商売をしていると勘繰られても仕方がなかろう」「定職に就いた様子はない」「ずいぶん政治色の強い人物のようだ」「詐術」「卑劣」、などはどうしても使わねばならない表現だったとは思えないので、筆の走りすぎかなと解釈しました。
私が懸念するのは、件の皇室典範論争の時は下積みの立場で色々と偉い先生たちの議論を裏方で仰ぎ見ることが多かったのでその経験から言うのですが、皇室を思うあまり感情的な表現を使いすぎる傾向がどなたにもあるということです。普段温厚な先生方同士が感情を剥き出しにして罵り合う光景は見るに堪えなかったので、少なくとも私の砦の読者の皆様には、感情的な表現だけは慎んで頂ければと思います。いつ味方になるか分からない人に対して批判ではなく非難を行うのは問題のある感覚です。
内容への疑問と誤解に関しては以下に列挙します。
主題は「旧皇族の皇籍復帰は非である」ということで、つまり「一度でも民間人になられた方やそのご子息が皇族に復帰して、天皇になる可能性があるなどとはそれこそ問題である」とのことです。もしこの通りの主張ならば、宇多天皇の先例もあり、宇多帝御自身が相当な御苦労をされた事実を思い起こせば、なおさら苦難の道であり、現実的には国民の理解を得るのが難しのは確かでしょう。
ただ、私が考える「旧皇族の復帰」とは、「旧皇族の方々に皇族に復帰していただいて、その御子息の方々に皇族としてふさわしい御教育を用意し、万が一の時に備えていただく」という意味ですので、小林氏の批判される「旧皇族復帰案」とは違う内容です。つまり、現時点で民間人として生活されている方々が天皇になられることはありえない訳です。よって、小林氏の懸念に関しては論題充当性がないので答えようがない、というしかないのです。
「竹田氏は全然気づいていない。」の後に、「皇居内に悠仁親王が一人でのこされてしまう」と続くのですが、これは完全に小林氏の誤解です。将来、秋篠若宮殿下が即位される際には、皇族が一人もいなくなる、というのが竹田さんや私の問題意識ですから。この砦でもそれは何度も強調しているくらいですから、「竹田さんが気付いていない」とはまったくの誤解です。むしろこの点で、小林氏と竹田先生は完全に問題意識は一致しています。解決の方法論はまったく逆ですが。
旧皇族の方々が何親等離れているかの議論ですが、これは継体天皇・後花園天皇・光格天皇の先例、そして宮家創設の先例を検討する上での議論だと思います。その解釈によるのですが、私は「何親等以上離れたら不可」という先例はないが、「女系」は先例がない、との立場です。「Y染色体」云々の議論は、私は竹田さんと一度もしたことがないので、「そういうことを言ったことが、八木さんの発言に賛成していたかな」くらいの感覚しか持てないのですみません。
竹田先生の憲法無効論批判と「国民が決めればよい」は、佐々木惣一・大石義雄両先生以来の京都学派伝統の憲法論ですので、結論だけ取り出して論評するのは危険です、としか言いようがないです。この砦でも近いうちに解説します。竹田先生・佐々木先生・大石先生のいずれも占領憲法全肯定のお立場でないことだけは確かです。
最後に。竹田さんは色々な揶揄にさらされていますが、御自身の立場を考えるのであるならば、社会に向かって声をあげる必要がない立場にあった訳です。言論界にいる以上、竹田先生の御意見にすべて賛成せよなどというのは愚かなことであって、聞いた人が自分の頭で考えて賛否を表明すれば良いのですが、一つの議題で立場が異なっても、また別の議題では同じくする可能性もある訳です。そして立場が異なる敵であっても尊敬できる相手も存在する訳です。
竹田先生への小林氏の批判がどういう方向に飛び火するかわかりませんが、感情的な対立になることだけは望みません。繰り返しますが、賛否いずれにせよ、相手への敬意を払った議論を望みます。
少なくとも私は小林氏とは女系天皇論に関して意見を異にしますが、敬意は払います。
私見ですが、小林よしのり氏の記事については
竹田先生本人は無視を決め込んだ方がいいと思います。
と、申しますのも、それを受けて反応すると、小林氏がこれで商売になると
喜んでしまうからです。
彼は残念ながら、ただ漫画を売り本を売るためだけに書いています。
もっと意義がある議論を彼が展開したときにだけ、参加すべきであり、
漫画のネタを与えるような必要は特にないと思います。
読者は読者で、彼の記事について評価しますので
読者の判断にゆだねるべきでしょう。
私たちも小林よしのりという人物がどういうことを言うのか
じーっと眺めつづければいいと思います。
まあ、面白くなくて、読者の支持もなければ、連載は打ち切りですし
雑誌も廃刊されちゃうわけですからね。
氏の本は一部のみ読んだことがありますが、論理の展開と画像上の表現が入り乱れていて、時として始末の悪い内容になっていると感じたことがあります。
> ただ、私が考える「旧皇族の復帰」とは、「旧皇族の方々に皇族に復帰していただいて、
ここ、念のため確認しますが、皇族に復帰はするが皇位継承権は持たず、皇族の子として生まれた方に継承権を認めるということでしょうか?
仙台様
私が考える案、というか理解している案はそういうことです。
宇多天皇(源定省)の先例に倣いつつも、宇多帝がご苦労された点を
現代において乗り越える案として理解しています。
細かい技術論は色々言えるのですが、今の社会で会社員としておられるような方をいきなり皇族復帰していただいて、「いざという時は天皇になるお覚悟を」などという話ではありません。
旧皇族復帰案に反対の方(の一部)と私が共通しているのは、皇族の方々には教育が非常に大事である、という点です。よって「旧皇族復帰」に関して、このような理解になりました。
お久しぶりです。
臣籍降下した家柄から皇族に復帰した、という例は、先生の挙げられる宇多天皇、醍醐天皇の例がありますが、これ何せ1000年以上も前の話ですから、果たして前例として機能させうるか、という問題はありますね。
今週号のサピオは私もまだ読んでいないので詳しくは分からないのですが、ポジションをほぼ同一にする識者の間でここまで議論が分かれるのは奇妙な気がします。ここで一応、問題点を私なりに整理してみると…
1.次期天皇については問題はない(東宮殿下がおられる)。
2.次々期天皇について、東宮ご夫妻から親王がお生まれになる可能性は期待できない(東宮妃殿下の年齢の問題がある)。
ここまでが前提。
3.とすれば、次々期天皇は愛子様か、秋篠宮殿下のいずれが継承せられるべきか(第一の問題点)。
4-a.愛子様が継承されるとすれば、その御子に次々々期天皇の継承権を認めるべきか(第二の問題点。女系容認論の是非)。
4-b.秋篠宮殿下が継承されるとすれば、次々々期天皇は悠仁殿下が継がれることになるが、次世代皇族が少なすぎることにならないか(第三の問題点)。
旧皇族の復帰というのは興味深い指摘なので私も注目していますが、国民の一般意識として容認されうるか、またその旧皇族ご本人が拒否された場合どう対応すべきか、という問題はあります。
個人的には「女系を容認するのならば、どのような場合に、どのような方法で容認すべきか(より具体的に言えば、皇位継承権の順序をどのように位置づけるか)」という議論が行われるべきではないかと思うのですが…でもそういう議論って殆ど見たことがないですよねぇ。なんでだろ?
かしわもちさんの意見に賛成です。
とにかく静観しましょう。
しかし、右の人たちは、右の人たちを攻撃したがりますよね〜?
今回、自民党の大敗も、半分は自民党の自滅だったと思います。
結局、昨今の左傾化も、左の勢力が強いのではなく、
右が自滅しているのではないでしょうか?
そのような右翼の内戦に巻き込まれず、
私たちは真正保守という、右でも左でもない、
ど真ん中を堂々と進んでいきましょう!
私見です。
久しぶりにSAPIOを読んでみましたが、とても残念でした。
何が残念だったかというと、小林よしのり氏の作品が、以前より圧倒的に
面白くなかったことです。
マンガ家ですし、少しずれたり過激であったりするところも彼の持ち味で
大学生のころから、論点はずれているが、面白いと思って読んでいました。
でも、今日読んで、「ああ彼も老けてしまったなあ」と感じました。
どんなことを書いても結構ですが、
プロなのだから、最低限でも、どんなにむちゃくちゃでも読んで、時間の無駄だったと感じさせない内容にしては欲しいと思います。
今回の2本の作品は、自分の本をもっと売りたいため?と感じたのは私だけでしょうか?
まあ、面白くもなんともない作品は、そのうち淘汰されてしまうと思うのですけれどもね。
一方で、業田良家さんの作品は、久々に見ても切れ味があって、面白く素晴らしく感じました。
そのほか2点感じたことを書いておきます。
*天皇陛下をこれだけ長く商売道具にしている時点で、十分彼は不敬だと思いますねえ。他人を批判できるのでしょうか?
*竹田氏から対談を申し込まれたら、うまく時間を調整して対談をして
竹田氏を論破すればいいのに、ただ一方的に「断った」と書いても、
やっぱりそれは「議論から逃げてしまった」としか第三者からは捉えられないと思います。
ニセ皇族だと言い切れるのであれば、ちゃんと本人の前でしっかり言えるはずです。
あそこまで老いてしまった彼にはもはや
あのおぼっちゃまくんのころの全盛時代の力には、
到底及ばないのだとは思い、寂しい限りなのですが
この出版不況の中、なんとか立て直して生き残ってほしいものだと感じました。
〉かしわもちさん
確かに最近の小林よしのり氏の本は内容が薄くなったように感じます。
高校の時に彼の書いた戦争論を初めて読んだ時の衝撃を今でも忘れません。
それだけに今回の氏の本の内容には残念に祟りません。
新田様へ
>高校の時に彼の書いた戦争論を初めて読んだ時の衝撃を今でも忘れません
私も初めて読んだときは高校生で、衝撃を受けましたよ…。今ならば、もっと冷静な目で見られるのですが。お互い、若かったんですなぁ(苦笑)
あの本の上手いところは、理屈と理屈を感情論で上手くつなぎ合わせているところでしょうか。論文のようで論文でない。漫画のようで漫画でない。誰かが「ゴー宣」を「意見主張漫画」と評していましたが、良くも悪くもその通りのものです。
ただ、彼の著作が評価され世間に影響を与えてきたのも事実。この砦にも彼を支持してきた人はいると思います。私もそうでしたから。
だから、自分と意見が違うからと言って「老けて面白くなくなった」「本を売りたいがために書いている」などと論点以外のところで批判するのは、いかがなものでしょうか。それでは、今まで彼を批判してきたエセ知識人と何も変わりません。あ、これは別に個人攻撃ではなく、砦に書きこまれる皆様に共通するお話です。
倉山先生が書かれているように、彼の今までの意見や功績は素直に評価し、今回の問題には「感情的な表現だけは慎ん」で、きっちり論点を挙げて批判すればよいのではないでしょうか。それこそが正攻法にして王道、近道にして最善手だと思います。
(本名を明かさない卑怯者より、小林氏への皮肉を込めて)
瀛さま
エセ知識人のかしわもちです。
私は小林よしのり氏との間で、天皇のあり方について意見が同じとも違うとも言っておりません。
自分と意見が違うからといって面白くない、と言っているわけではないのですが、
私の上記の2つの文章(1と6)を読んで、どう読むと天皇のあり方についての小林氏への意見と同じである、あるいは食い違うように読めるのか、
その意見表明すら書いていないのですが
書いた本人も分からないので、ぜひあなたに教えていただければと思います。
それが読める方は、相当読解力や洞察力があるか、
あるいはテレパスでもお持ちの素晴らしい能力の方だと思います。
私自身は、彼の「天皇論」は一読しただけで、精読していませんし、最近の彼の議論を今回のSAPIOまで読んでおりませんので
彼が現在どのスタンスになっているかも認識を持っておりません。
今回のSAPIOの記事に関しての論点*印2点以外は、何も書いておりません。
読んでから批判すべきと思いますので、感想にあたる部分以外には
当該号の記述についての批判のみに留めました。
*印2点の批判のどこが感情的なのか、ぜひ後学のためにエセ知識人めにご教示賜りたい。
マンガが面白いか面白くないかという個人的な感想と、批判を分けて書いたつもりですが
おそらく私はエセ知識人ですので、文章力がなく、そのようには読めなかったのでしょう。
大変申し訳なく思います。
例えば、私は意見が違っても、山田玲司氏の最近のマンガは、
なるほどなあと思うものもあり評価しております。読む価値があると思っております。
小林氏のマンガにしてもしかりです。ただ今回久々に読んで、面白くないと感じただけです。
マンガについての個人的な評価と、当該号記事への批判と、小林氏の天皇論への批判の3者を、
まぜこぜにして書いたつもりはありませんが。
まぁここはあまり熱くならずに冷静に行きましょう。と私が言えた義理でもないんですがね^^;。
小林氏の漫画が面白くなくなったとは思わないのですが、それは少なくとも今回の論点に関しては中心ではないと思います。実際「面白いが中身がない」ものや「面白くないが見るべき点はある」ものだって世間にはたくさんあるわけですし。
面白いか面白くないかは主観的な問題なのでここでは立ち入ることを避けますが、問題は「意見対立ではなく、人格対立になってしまっている」ということではないかと思います。小林氏の主張を大雑把に言うと「お前(竹田氏)に言う資格があるのか?」というところに行き着くと思われますが、ならば逆に「誰ならば言う資格があるのか?」ということにならないのか、疑問が残ります。現代は自由言論社会ですから、「言う資格のない」人などいないはずであって、「言わせておいて疑義のある意見について徹底的に叩く」という方法をとるべきだったのではないか、と思います。
小林氏は佐藤優氏に「言論封殺された」と憤っておられましたが(もちろん、この点については私も深く同情します)、同じことを自分もやっていることについては、私も残念に思いました。
かしわもちさまへ
かしわもちさまが分けて書いたことの意味に気付かなかったのは私の読解力不足です。また、「自分と意見が違うからって」と書いたのは私の勇み足です。訂正してお詫びいたします。
ただ、この記事において、個人的感想を積極的に書いているのも現状ではかしわもちさんだけです。
11.は泥酔のまま書きこんでしまったので、少し嫌味な言い方になってしまいました。仮眠して落ち着いたので、もう少し真意を伝えようと思います。
恥ずかしながら、自分の文章を読みなおしてようやく分かったのですが、私はかしわもちさまの文章が小林氏を見下しているように読めて、それに反発してしまったようです。
「SAPIOの記事内容への批判じゃなくて、小林をたかが漫画家と思って馬鹿にしているんじゃないか」と思ったわけです。
以前にもここに似た内容を書き込んだのですが、私はインターネット上で相手を見下して馬鹿にするような文章を書き込む人(2ちゃんねらーのような)に嫌悪感を抱いておりまして、顔も声も聞こえないからこそ相手に敬意を払った口調での議論をすべきだと思っております。
その点で、かしわもちさまの文章に反発して、思わず書き込んでしまった次第です。
9.の書き込みを読んで、真意を理解しました。なので、かしわもちさまへの批判を撤回させていただきます。私の勘違いで不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした。
ただ願わくば、
「それが読める方は、相当読解力や洞察力があるか、
あるいはテレパスでもお持ちの素晴らしい能力の方だと思います」
みたいな皮肉は、もう少し控えていただければ…と思います。
長文失礼しました。私の文章で不快に思われた方々、ごめんなさい。
叔父さんの息子様
何千年前であろうが先例は先例です。宮中とはそういう世界です。
ちなみに英国判例法もそうです。
「新儀」には何の価値もないどころか悪である、というのが基本です。
ただ守るべき価値を守るためにこれまでと同じことをできない、
そのような際に持ち出されるのが先例です。
本来は「新しいこと」には何の価値もないのです。やむを得ずそうせざるをえなかった、はあっても。
女系天皇に関しても私の立場はこのようなものです。
結局、百点満点の答がないならば、合理ではなく、先例に近いか否かでしか決着がつけられないのではないでしょうか。
瀛様 かしわもち様
私の読解力では、小林氏への態度に温度差があれど、竹田先生への立場に関しては争いがないように感じました。
一部の表現でお互い面白からずな側面もあったようですが、冷静なやりとりで解決していただいて感謝しております。この砦のレス同士で喧嘩になっても仕方がないので。
今、緊急短期集中連載として「日本国憲法の正統性とは」のような内容を考えています。たぶん、小林氏に限らず、ほとんどの保守系の論客の方が「無効論」「改正憲法論」などを誤解されていると思いますので。
この砦らしく、学術的に盛り上げてくだされば幸いです。というか次のカキコミからそれをやります。(気軽に書ける「世界史」シリーズは除く)
このようなことを言うとまたネタの渋滞がぁ。「亡国前夜」シリーズ、歩いているだけで褒められるくらい評判なのに。。。泣
瀛さま
エセ知識人・かしわもちです。
高尚な知識人の方に謝っていただくなど、
無知蒙昧な私にはあまりにも、もったいないお言葉、真にありがたく存じます。
しかし少々腑に落ちないところがあり、以下に記したく存じます。
12について、
「顔も声も見えない相手だから敬意を表すべき」とのご高説ありがたく拝聴いたしました。
では8にお書きになられた以下のご自身の文章に、他者への敬意がどの程度存在するか、
ぜひ解説いただけないですか?
ご自身の文章は他人を一切見下していないのですか?
だから、自分と意見が違うからと言って「老けて面白くなくなった」「本を売りたいがために書いている」などと論点以外のところで批判するのは、いかがなものでしょうか。それでは、今まで彼を批判してきたエセ知識人と何も変わりません。あ、これは別に個人攻撃ではなく、砦に書きこまれる皆様に共通するお話です。
*他人の文章を引用しながら、個人攻撃ではないと軽く書き込めばいいとする文体
*エセ知識人という安易なレッテル
(注:私自身は自らをエセ知識人だと思っております。
他人をエセ知識人だと見下せるほどの皆様の素晴らしいご高説には
とてもかないませんから)
お書きになられた内容は誠に素晴らしいのですが、明らかに私への見下しだと感じました。
私の想像した通り、12で「かしわもちさまへの批判を撤回します」と書いてあります。
個人攻撃ではなかったはずですが、どうして私個人への批判撤回となるんでしょうか?
結局、真意は私への反発であり個人攻撃だったということを告白されましたね。
なお、私は個人攻撃をするなというつもりはありません。
名指しで堂々と議論をしてゆく方が清清しいと個人的には思います。
個人攻撃を意図しながら、個人攻撃ではないと書いている、
そしてそこに人格攻撃となる言葉を平気で書き込む非常に高尚な書き方に
なかなか巧妙で素晴らしいと感嘆した次第です。
また皮肉をやめてほしいのであれば、まず自らが他者に皮肉を言うべきではないでしょう。
あなたは8で、小林氏に皮肉だと公言している書き込みをしているではないですか?
あなたは他人を皮肉ってよくて、私は皮肉を言ってはいけないのですか?
それは知識人かエセ知識人かの差なのでしょうか?
また私の文章のどこが漫画家一般を見下したように読めるのか、
素晴らしい想像力、もとい創造力に心より敬意を表します。
小林氏のマンガは最近面白くないということしか述べておりません。
むしろ6にては、業田良家氏のマンガが相変わらず切れ味が鋭いと評価しております。
マンガは淘汰されることがあると書きましたが、それは商品一般で言えることでしょう。
私はあなたとはスタンスが違うように見受けます。
私は、敬意を表すべき相手と、そうでない相手を区別する人間です。
エセ知識人ですから。
私は斬りかかった相手には斬りかかるだけです。
斬りかかる相手に敬意を払うかどうかは相手によります。
正面から斬りかかる相手には敬意を表します。
議論が済んだらノーサイド、それができるはずです。
私は一様にインターネットでの掲示板書き込みをされる方を見下しているわけではありませんが、
彼らを見下す時があるとしたら
その理由は、ひとえに「正面から斬りかからないから」になると思います。
全員に対して敬意を表せないのに、「敬意を表すべき」などと
自己矛盾をするような言葉を言いたくはありません。
他人を見下した文章を書いたのに、「私は見下した文章が嫌いです」、とも書きません。
私は偽善的に振舞いたくないので、できないことはできないと言うポリシーです。
かしわもちさまのコメントに対してお答えします。
恥ずかしながら、1.と6.が同じ人であることを見逃していました。ですから、「複数の人が似たような事を書いている」と勘違いしてあのように書いたのです。
「個人攻撃ではない」とその前後の文言は、その意味では完全に自己矛盾しています。
かしわもちさまの指摘を受けて、結果的にかしわもちさま個人への批判になっていたことに気づいたので、12.で「かしわもちさまへの批判を撤回する」という書き方をしました。これは100%私のミスなのでひたすら謝るしかないのですが、決して遠まわしに個人批判することで相手を見下すつもりで書いたわけではなかったということは、どうかご理解ください。
「エセ知識人」という言い方は安易で配慮不足だったと思います。これは確か小林氏が『ゴー宣』で使っていたのを、語感がいいのでうろ覚えでそのまま使ってしまったものです。
私の中の「知識人」という言葉の定義を提示せずにそのまま使ってしまったのが悪かったと思います。
私の個人的解釈では、「知識人」「エセ知識人」「その他」の違いは以下のとおりです。
知識人…公式の場(雑誌論文やTVなどのメディア)で知識を以て広く主張する人。それは即ち、批判される覚悟を持っている人ということです。専ら学問的論点で相手を攻撃するか、それ以外の点で攻撃することがあるかで「知識人」(以下、真性知識人と仮称)と「エセ知識人」に分かれる。その点、倉山先生は「真性知識人」だと思っています。小林氏は「真性、エセの両要素を持つ漫画家」という認識を私は持っていましたが、SAPIO該当号では「エセ」の要素がかなり強かったように思います。
「その他」…公式の場で主張しない人。例え知識を以て言説を行っていても、名や顔を明かさない人、その他発言に責任を持たないでいい環境にある人はここに該当します。知識も批判される覚悟もない私は当然ここですし、かしわもちさまもニックネームを使っている以上、この砦ではここに該当します。8.のメールでは、そのような自分自身を貶めて「卑怯者」と書きました。
「卑怯者より皮肉を込めて」とは、批判される覚悟がない卑怯者である私が8.の文章を書くことで、本名や顔を明かしている小林氏を遠まわしに「論点以外の点で竹田氏を攻撃している」と、さも「真性知識人」であるかのように批判することへの皮肉です。
確かに「オレなんかに言われるようじゃおしまいだよ」という小林氏への皮肉でありますが、同時に、立場をわきまえないで批判している自分への皮肉・侮蔑でもあります。「お前がそれを言える立場じゃないだろ」というツッコミ、批判を予想して、「自覚していますよ」という意味で自分を「卑怯者」と卑下したのです。偉そうなことを書いてしまった照れ隠しで書いたのですが、完全に蛇足でした。これもまた自己矛盾でした。
相手だけを一方的に皮肉った訳ではないをご理解いただいたうえで、もう一度改めて8.の最終段落を読んでいただければと思います。しかし、最初にあのような文言を書いた私が一方的に悪いで、もはや何を言っても説得力がないことも自覚しています。
私は、「その他」に位置する人間は、「知識人」であれ「エセ知識人」であれ自らの発言に責任を持ってらっしゃる方々を一定程度尊敬すべきであり、「その他」ごとき人間が「論点」以外の点であれこれ批判するべきでないと思っています。(もちろん、「知識人」をより尊敬し、相対的に「エセ知識人」を下に見てしまう傾向はありますが)
ここが、私とかしわもちさまの違いであり、本来他人に押しつけるものでなかったと今回の件で反省している点です。また、そのように自分で言っておきながら矛盾したことをしてしまったと猛省している点であります。
私の勝手な基準では、1.の「ただ漫画を売り本を売るために書いている」は小林氏の商業主義的側面を批判する(ここを12.で「たかが漫画家と思って馬鹿にしている」と書いたのでかしわもちさまの「漫画家一般を見下した…」の批判を生んでしまいました)ことで彼の「真性知識人」としての側面をも批判しているように思ってしまったのです。
これについては14.で真意を理解しました。というか、私の読み間違いであることに気付きました。また、最近の小林氏が「意義がある議論」をしていない事には私も同意します。
総じて、私が文章に対する配慮を激しく怠ったためにかしわもちさまの批判を生んでしまったと思います。かしわもちさまに喧嘩をふっかけるつもりで書いたわけではありません。11.の最後の一文は今読むと失礼極まりない文章ですので、深くお詫びして撤回させていただきます。
長文になりましたが、何卒私の真意のほどをご理解頂ければと思います。
瀛さま
長文でのご説明ありがとうございます。
私の乏しい頭での読解力では、何が書いてあるのか、ほとんど意味がわかりませんでしたが、
私は匿名である以上、「エセ知識人」ではないそうで・・・。
なにより御託を並べていただきましたので、大変勉強になりました。
あなたと私とのさらなる違いは
真性知識人だのエセ知識人だのその他だの、そういうカテゴライズ・定義は
私にとっては全く無用だということです。
結局、それがあなたの説明なんですね。
どうやらその三者には上下関係があるようですが、
そうであれば、私はさらにその下の「その他以下」で結構です。
ましてや小林氏が「真性知識人」の要素があるなどというのであれば、なおさら知識人などにはなりたくないですし、
知識人全体に敬意などどうして表せましょうや。
真性知識人はそんなに偉いんですか?そしてそこに勝手にあなたは倉山氏をカテゴライズする、一緒にする、
それは相当失礼ではないかと思いますが。
一緒くたんにそういうことを論じることが乱暴であることを
いつになったら後自覚いただけるのでしょうか。
私はあなたと違って、階級主義者でも差別主義者でもないということです。
「その他」にも入りたくないのは
自分の書いていることがどこまで偉そうなことかということを
分かっていない人と一緒にされたくないだけです。
私は、誰のどんな立場であろうが、実名であろうが匿名であろうが
言っている事・書いている事で判断します。
これ以上は無用です。
悠仁親王さまがお茶の水大学付属幼稚園入り!最近の皇族の学習院外しはなんなんだろう…
というより、現在では国立大付属の方が御成長のためにベターかな、(いづれ東京大学に入学するのか?)!
浩宮皇太子さまは学習院大学の登山部で先輩に『ひろのみや」と呼び捨てでいいんですよ…」とおっしゃられていた(人間天皇とは、平等とは何か一番悩まれた)んだろう?!
皇族の御成長の様子が庶民にも拝見させていただける時代は幸せである。