宮脇淳子先生より岡田英弘先生の訃報

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宮脇先生より拡散依頼です。

さすがに「岡田英弘」で検索して、画像に丹羽某がくるのは・・・。ということで。

宮脇先生のHP

原文

以下、転載。

夫・岡田英弘を悼む
岡田(宮脇)淳子

私の最愛の夫・岡田英弘は、平成29年5月25日(木)早朝、自宅で亡くなりました。うっ血性心不全という診断です。86歳と4ヶ月でした。
18年前68歳のとき脳梗塞を患って失語症になったあと、人前に立つことは少なくなりました。10年前には心筋梗塞で五個所の心臓バイパス手術と僧帽弁にリングを埋め込む開腹手術を受け、5年前には重い心不全と腎不全で長期間入院し、除細動器を埋め込んで退院したときは要介護4でした。遠出はできなくなり、食事制限も一層きびしくなりましたが、それでも、一年後には要介護2、三年後には要介護1に改善し、昨年、平成28年6月には、岡田英弘著作集全八巻(藤原書店)の完結記念シンポジウムとパーティーで皆様に元気な姿をお見せすることができました。
今年の正月も、自宅に弟夫妻や友人を招いて私の手作りのお節料理とお雑煮を食べ、1月22日には自宅マンションの理事長夫妻と、西巣鴨の大正大学鴨台食堂(おうだいじきどう)にタクシーで出向き、大好きな肉料理をいただくこともできました。
2月になって急に身体がむくみ、体重が増えてきました。18年前の脳梗塞以来お世話になっている千駄木の日本医科大学付属病院にうっ血性心不全で2月9日に入院したあと、何度か誤嚥性肺炎になりましたが、新薬が効いて3月20日に40日ぶりで退院することができました。ふたたび要介護4でしたが、念願の自宅に戻って10日間過ごしたあと、今度は大腸憩室炎で大量に下血し、貧血のため3月31日に再入院になりました。
最後は自宅で看取りたくて、昨年の夏以降、訪問の医師と看護師と契約し、定期的に往診や訪問リハビリを受けていました。日医大付属病院のほうでも退院支援の看護師たちが在宅医療の方法を工夫してくれ、何度も病院でカンファレンスを持ちましたが、心不全が重く、誤嚥を繰り返して、なかなか退院するところまで行きません。一時は自宅に帰ることをあきらめ、私が泊まり込めるように個室に移りましたが、本人が自宅に戻る意志が強く、苦しい治療を本当によく頑張って耐えて、5月24日午前11時、50日ぶりにとうとう自宅に帰ることができたのでした。
お昼には訪問看護師が来て、エンジョイゼリーというプリン状の栄養補助食品を、飲み込みを確認しながら食べさせてくれました。午後には往診の医療チーム、訪問看護師、ケアマネージャー、ヘルパーたち多数が取り囲んで、今後の介護方針についてにぎやかに相談しているとなりで、安心したのか自動で寝返りを打たせるベッドの上でぐっすり眠っていました。
みんなが引き揚げたあと目を覚ましたので、いつも病院でつきそっていたように会話を交わし、私は食事をして風呂に入りました。酸素を吸引していましたので、ベッドの脇で「痛くない?苦しくない?」と聞くと、「ううん」と首をふります。「そばにいてほしい?」と聞いたら「うん」と言ったので、「私、お酒飲むよ」と言うと、また「うん」と答えました。マグカップに入れた焼酎のお湯割りを持ってそばに座り、彼の手を握って、半時間ほどかかって飲み終えたときには、すやすや眠っていました。
となりの部屋で私も安心して眠りました。夜中に三度ほど起きて見に行くと、同じ姿勢でベッドにゆられながら眠っています。翌5月25日の朝6時半、私がベッドに行って額に手をあてたら、冷たくなっていたのです。
すぐに前日来てくれた24時間態勢の在宅医療法人と訪問看護師に電話をしました。午前7時前にはいつもの看護師がやってきて、私と二人で身体を清めると、まだあたたかかったので、ほんの少し前、明け方に息を引き取ったのだということがわかりました。まもなく医師もかけつけてくれ、聴診器をあてたあと、すぐに死亡診断書を書いてくれました。警察にも病院にも行く必要がなかったことが何よりと思いました。
寝息が聞こえるくらいの距離に私は寝ていましたが、夜中に声をあげることもなかったので、苦しむこともなく、眠ったまま逝ってしまったのだと思います。
じつは今年1月、自宅から徒歩15分の、本駒込三丁目にある浄土宗の常徳寺にお墓を買いました。私たちには子供がいませんから、和歌山市にある私の実家の浄土真宗の浄徳寺(たまたま同じ発音です)に葬ってもらおうと考えていたのですが、副住職をしている私の弟に「東京に墓を買ったほうがいい」と言われ、友人たちも「和歌山は遠すぎて墓参りに行けない」と言います。昨年、親友二人のご主人たちのお葬式に出て、自分たちのときのことを真剣に考えはじめたときに、新聞広告で見つけたのです。
私が最初一人で見に行ったあと、すぐに主人と一緒に行き、住職にも面談して寺の檀家になり、墓石も字体も主人が自分で選びました。そのあと入院してしまい、できあがったお墓を見ていないことが心残りだと病室で訴えるので、私は住職にお願いして病室に来ていただき、「南無阿弥陀仏」を唱えていただきました。主人は、自宅に近くて私がいつでも会いに行けるお墓に入れることを、心から喜んでおりました。
岡田は、18年前の脳梗塞の後遺症で話をすることは上手ではありませんでしたが、頭のよさは変わることなく、最後まで意識はしっかりしており、判断力も衰えませんでした。日本尊厳死協会に入っておりましたので、胃ろうや延命措置は取らないようにと、入院直後から医師に申し渡してありました。病室では、自分の言いたいことが伝わらないと大声をあげることもあったようですが、私には最後までおだやかでやさしい人で、残される私の心配ばかりしていました。
私が病院に行きベッドのそばに何時間でも座っていると、「本当はこんなことさせたくなかった」「こういう風にしていることが君の役に立っているならいいんだけど」と、私の仕事の邪魔をしていると心配します。病気が一向に治らないことを「ふがいないね」「こんなにいろんなところを見せてごめんね」と言います。「お互い、つらいね」と、先に逝ってしまう自分と、残される私のことを思いやり、「もうすぐ、ずっと一緒にいてあげるよ」とも言いました。ふさわしい言葉がすぐには出てこないので、何時間もの間に、ぽつぽつとしか話しませんが、何を言いたいのか私が確認し、当たっていると満足そうにうなずくのです。最後には「何か言いたいことある?」と聞くと「ない」と返事しました。
日医大付属病院に、延べ90日間入院していた間、看護師たちには、こんなに相手のことばかり考えているカップルは滅多にいないと言っていただき、すべての看護師に本当によく面倒を見てもらいました。医師にも看護師にも、ビジネスの範囲を超えた人間味のある思いやりを示してもらい、日本は何ていい国だと、あらためて思った次第です。
主人は自分の意志を貫いて自宅に戻り、でもこれ以上私の負担になりたくなくて、自分の人生を自分の思い通りに終えました。最後までカッコよくてダンディで、なんて精神力の強い人なんだと、心から敬意を覚えます。
四日後の5月29日まで自宅のベッドに安置し、マンションの友人たちに見守られながら自宅で納棺しました。29日の通夜と翌30日の葬儀・告別式は町屋斎場で行ないましたが、新聞社への通知は待ってもらい、主人を直接知っている友人と親族だけで見送りました。それでも40もの生花が並んで、寂しくない旅立ちだったと私はほっとしています。
40年近く前、最初に知り合ったときにはすでに高血圧で、あまり長生きしそうには見えませんでした。21歳年上でしたから、いつでも見送る覚悟はしていましたが、後悔しないように、できるだけ一緒にいようと思いました。60歳を無事に越えたときにはとても嬉しくて、そのあとも70歳を越えて、さらには80歳も迎えることができて、はじめに想像をしていたよりもはるかに長く一緒にいられたことを、私はいつも感謝していました。
人生の三分の二近く一緒にいた人がいなくなって、私の人生最大の危機だと思いますが、主人が私に惜しみなく与えてくれた愛情を拠り所に、これからも岡田史学を継承・発展させることを私の使命と考え、残りの人生を悔いのないように生きていきたいと思います。
合掌