日英、二人の若き宰相

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 ウィリアム・ピット(1759〜1806)。ヨーロッパを支配するナポレオンを打倒した、大英帝国の宰相である。さしずめ、「死せるピット、行けるナポレオンを走らす」であろうか。偉大な父、ウィリアム・ピット(大ピット)と比較されて、小ピットと称される。14歳でケンブリッジ大学入学、16歳で卒業。それ以外は引きこもりで学校に通わず。21歳で衆議院議員に当選、24歳で総理大臣に就任。以後47歳で死去するまでのほとんどを宰相として過ごす。

 北条時宗(1251〜1284)。ヨーロッパ以外のユーラシアを支配するモンゴル帝国の侵略を打破した、日本国の執権である。14歳で連署(副総理)、18歳で執権(総理)に就任。34歳で死去するまでその地位にある。その死後もモンゴルは日本への侵略の機会をうかがったが、時宗の息子貞時は警戒を緩めなかった。

 さて、留学生たるもの、まずは自国の歴史や文化について知らねばならない、とよく言われる。そこでよく出されるのが、英国で日本人留学生に対し「モンゴルが二回も日本に攻め込んだそうだが、初めと二回目はどう違うのだ」と聞かれて答えられずに恥をかいたという例。

 最近の自虐的な歴史学者の言に従うと、「文永の役は威力偵察、弘安の役はモンゴルが本気で攻めてきたが、たまたま神風と呼ばれる暴風雨が吹いたので助かった」とか言いかねないので恐い。

 正解。「文永の役は水際撃滅。弘安の役は艦隊決戦。」

 これくらい言えないと、国際社会では通用しない、という話です。「文永の役」「弘安の役」「威力偵察」「神風」「水際撃滅」「艦隊決戦」の用語と訳語は、留学前に調べましょう。特に後ろ四つはすべて英国の歴史用語・軍事用語です。特に「神風」って、無敵艦隊(アルマダ)撃滅に関してスペイン人がオランダ人が使っている言葉です。というか、「元寇」を訳しなさいと言われて、すぐに訳せた日本人にまずお目にかかれたことがない。。。

 ついでにその昔、鎌倉の円覚寺のお墓の前で英国人に「北条時宗ってどういう人ですか」と聞かれて答えて曰く。

「日本のウィリアム・ピット。ピットはヨーロッパを支配するナポレオンを打倒した、偉大な英国の総理大臣。24歳で総理に就任されたとか。尊敬している。北条時宗はヨーロッパを除くユーラシアを支配するフビライの帝国を撃退した、日本の総理大臣。18歳で総理に就任した。ピットより14歳若く死んで、ここに眠っている。日本では最大の英雄の一人として扱われている。」と。

 以上、翻訳調でわかりにくい日本語を載せました。さりげなく微妙な嘘を混ぜているの、わかりますか。外国人相手ですから、一応は相手をたてないと。笑

 それはさておき、なぜ昔の日本の若者はかくも偉大だったのか。少し考えてみたいと思う。

「日英、二人の若き宰相」への9件のフィードバック

  1. >ヨーロッパを除くユーラシアを支配するフビライの帝国
    ここですね。
    モスクワは立派にヨーロッパですし、ワールシュタットは現在のポーランド、すなわち東欧。モンゴルは充分ヨーロッパを支配しています。

    余談ですが、朝青龍関はモンゴルの学校で「日本とこれ以上友好関係を損ねたくなかったから戦争をやめた(つまり、モンゴルが自主的に撤退した)」と教わったそうです。明らかに歴史事実とは異なりますが、歴史観とはそういうものなのでしょう。
    まぁ、現在のところモンゴルは一部の特定アジアと違って親日国家のようですし、朝青龍関も日本文化に敬意を持ってくれているようですから(これは多分にアヤしい部分もあるが)、目くじら立てて否定したりせず「それが真実だと思うのならそう信じなさい。それがあんたの愛国心ってもんだ」と言ってあげるのが大人の対応なのかもしれません。

  2. ヨーロッパですとモンゴル帝国は恐怖の象徴だそうです。

    黄禍論なんて出るのもモンゴルの恐怖があるからなそうな。

    それを撃退した北条時宗は世界史に残る英雄だと思います。

    倉山先生には専門外かもしれませんがそういう世界観で本や小説を出して欲しいですしそういう作家が現れて欲しいなあと思います。

    世界史からみて日本はこういう位置合いにあってという書き方をする教科書があまりないのには残念です。

  3. なるほど、神風は吹かなかったとは!
    さすが倉山先生、今回も目からウロコでした。浅薄なDQNウヨとはレベルが違いますね。本当に勉強になります。

    ちなみに私はこのページで真相を知りましたが、大体こういう認識でいいのでしょうか?
    http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Genkou.html

  4. 皆様新年早々ありがとうございます。

    >叔父さんの息子様
    ちなみに、モスクワ帝国が欧州と認められたのは1683年、ロシアが成立したのは1721年では?
    ピット好きの私としては、ピットがナポレオンを倒したと言わずにはおれないのです。笑

    >シバッティー様
    小説は私には才能がないので。。。小説のお手伝いやマンガの原作は大歓迎ですけど。世界史の本ならば、その名もズバリ『世界史』があります。笑
    新人物往来社にリクエストの手紙を送りましょう。大笑

    >通りすがりの2号様
    歴史学でも文永の役で本当に神風が吹いたのか、という議論は前々からありました。また、かの石井菊次郎大使は「神風で勝ったのではない」と、「元寇は北条、今度は東條」などという意味不明なアナロジーを戒めていました。

    添付の内容、確かに最近の歴史学のように狂ったことを書いておらず、事実関係で嘘は書いていないのですが、色々と大事なことが抜けています。

    一、元が高麗や宋の兵を動員したのは、外征による口減らしの意味もあった。主力のモンゴル兵の仕事は督戦隊かつ戦略予備。

    二、戦略予備とは、戦場での勝敗を決する好機に導入される最精鋭部隊のこと。文永の役では、「ここで一気に勝てる。大宰府を抜ける!」と思ったら、日本軍の抵抗が強すぎて退却せざるを得なかった。

    三、日本は「明日の朝には負ける」と覚悟していたら、先にモンゴルの方が継戦意思を挫かれていた。戦争は先に意思が挫けた方が負けなので、日本の掛け値なしの勝利。(人取橋の伊達軍のようなもの。)

    四、文永の役は、日元、双方ともに相手の手の内がわからず、両者苦戦だったが、日本軍が粘り勝ちした。この際の「悪天候」がどの程度だったかは議論があるが、勝敗を決するほど決定的ではない。=少なくとも、単なる暴風雨で座礁したスペイン艦隊を指して「無敵艦隊撃破」などと今に至るまで宣伝しているどこぞのイングランドとは違う。

    五、当時のモンゴルの得意手段は、直接侵略の前に商人をスパイとして送り込み、さらに間接侵略により敵国を内部崩壊させてから、最後に直接侵略(あくまで歴史の話です。今、日本に対してそんなことをしている国があるとは言っていませんよ)。よって、北条時宗が文永の役の前に反対派を全員粛清し、文永&弘安の役の前に使者を斬って捨てたのは軍事合理性にかなう。それをやらないと負けてしまうので現在の国際法やましてや華夷秩序などを持ち出して批難するのは不当。

    六、弘安の役の前に、日本軍が朝鮮半島を襲撃していた点に触れているのは秀逸。ちなみにこれは専守防衛の範囲内。

    七、南宋と高麗の兵の戦意が乏しいのは確かだが、モンゴル兵は督戦している。日本が上陸を許さなかったので、元軍全体の士気がどんどん落ちていったのは確か。結果的に元軍は三ヶ月以内に上陸できないと撤退せざるをえず、長期持久戦の構えの日本軍の方が、戦場の選定からして有利。そこにたまたま暴風雨が来たので撤退がはやまり、以降は掃討戦となったが、別に日本が不利だった訳でも、神風が吹いただけで勝てた訳でもなんでもない。(バトルオブブリテンの英国が、ドイツ空軍に対して同様の戦いをしている)

    八、以上を総合して、あらゆる資源を合理的に投入した北条時宗の戦争設計が優れていたから勝った。最終的に運も作用したが、運を引き寄せたのは北条時宗の戦争指導であり、国民挙国一致の協力。

    といったところでしょうか。
    しかし、文永の役で北条時宗、二十三歳。十八歳から三十三歳で死ぬまで、こんなこと考えてやったの、最近の「草食系」と言われる若者たち、どう思うのだろうか。

  5. 文永の役については、強い季節風が吹き、それへの対応を誤ったという説を聞いたことがあります。

    それと、兵站という観点から、元寇というのはそもそも成立したかという疑問はあります。

  6. 文永の役でも神風は吹いたと思いますよ。ただやはりそれを利用できる能力があったかどうかでしょう。

    大東亜戦争でも神風(台風)は吹きました。ハルゼーも0号機動部隊と呼んで恐れましたし、事実、米海軍の艦船に大きな被害が発生したり、遭難した米軍機も多かったそうです。反省すべきはそれを有効に日本側が利用したかです。

    文永の役における水際撃破も、元軍に暴風を利用する知恵と能力があるなら、日本が不利になった可能性もあるでしょう。

  7. >SCさん
    それは神風というよりも、単に米海軍に台風対策がなかったという話ではなかったでしょうか。日本は四艦隊事件で痛い目に遭い、それ以降艦の復元力の確保に追われていました。

  8. 初めて書き込ませていただきます。
    さっそく何点か質問をしたいのですが、
    まず水際撃滅の件ですが、元軍が今の福岡城攻めていたという記述が竹崎季長の日記(?)にあります。
    とすれば、日本軍は元軍に500mほど侵入されていたことになります。
    この時元軍は攻略しきれなかったので山に登ったとあります。
    水際撃滅と言うと海外線上で一撃を与え、敵の上陸を阻止するという意味だと解釈しているのですが、この定義に元軍は当てはまらないのではないのでしょうか?

    次に艦隊決戦の件ですが、日本軍が元軍に行ったのは、夜中に小舟に乗って相手の船に乗り込み、切り倒すという確か「夜討ち」と呼ばれるものだと記憶しています。
    艦隊決戦は、でかい船と船がドンパチやりあうことだという解釈であっているのでしょうか?
    とすればこの日本軍がやったことは艦隊決戦とは言い難いのではないのでしょうか?

    あとアルマダの海戦は「グラヴリンヌ沖海戦」で一応イギリスが勝っていたはず…
    確か何隻かガレオン船を沈めたはずだと記憶しているのですが…
    暴風が起きたのは確かその帰路のことだったかと記憶しています。

    あと威力偵察でないならなぜ矢が一日で切れるなんていう事態が起きたのでしょうか?
    矢は元軍の戦法の一種要のようなものだと思っています。
    それを一日で切らすなんて理解に苦しみます。明らかな準備不足だったのでしょうか?

    以上です。長々と失礼いたしました。
    もう見てないかもしれませんが、もし見ていたらレス下さい。

  9. なるほど、「ヨーロッパを除くユーラシアを支配するフビライの帝国」の部分が「微妙な嘘」でしょう。
    フビライが支配していたのは元であって、元はモンゴル帝国におけるチャイナの部分だけを指す言葉なので、本当のところフビライは「ヨーロッパを除くユーラシア」を支配していない。
    「微妙」というより、絶妙です。

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