官と公は違います。

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さきほど救国シンクタンクの研究会を行いました。

今日の一言。

官と公は違います。

江崎先生渡瀬先生とで、今日は理念と歴史についてかなり話しました。こういう時期だからこそ、理念と歴史をしっかり認識しておかないと、自分が何をやっているのかわからなくなりますから。

以下は、この件に関し、私が長年思っていたこと。ここからは研究会としてではなく、個人の見解です。

日本人は善良で、歴史的に、官僚も外国のように極端な悪いことをしませんでした。それが「お上信仰」につながっていることもあります。

では、支那事変は? 国家総動員法などの官僚統制は?

民は官に従うべし、頭がいい官僚(含・軍人)に任せておけば日本は上手くいくと信じ、破滅しました。その間、民の力は弱まる一方でした。果たして、その反省をしているだろうか?

根本的な話をします。

官僚は公の権力を預かっているだけの存在です。公そのものではありません。だから、民に対して恣に権力を振るって良い訳ではありません。日本では。

民もまた「公民」なのが、日本の歴史であり伝統法です。

選挙がなければ官僚と政治家の区別なんてないのですが、政治家だって日本では公ではない。

もちろん、自民党も「公」でもなんでもありません。

ところが、権力を握っている官僚や自民党を「公」と勘違いしていないか? 本人たちもそうだけど、少なからずの国民も。

官僚は「公」に雇われた従業員にすぎないのであり、国会議員の本質は税金の使い道を監視する監査役です。

蘇我、藤原、平、源、北条、足利、徳川・・・。あまたの権力者が現れましたが、彼らが「公」そのものではありません。公から権力を預かっているだけの存在です。

では、日本における「公」とは何か。

皇室です。

歴史的に一貫した事実です。

そして、公の根源である皇室は、国民を守る存在であっても搾取する存在ではなかった。これも事実です。むしろ、被差別民のような弱い立場の人たちこそ、皇室によって守られてきました。

臣民という言葉があります。

西洋や中華では、臣と民には天地の差があります。

君主・貴族と民は違う人間です。

しかし我が国では、臣も民も、天皇陛下から見れば「一君万民」です。皇室と臣(官僚や政治家)の間にこそ、超えられない壁があります。「君臣の別」です。

疫病が流行り、これから飢餓(不景気)が訪れようとしています。誰かにすがりたい気持ちもわかります。

さっそく、補助金目当てに自民党に殺到しています。その背後には官僚がいます。では、今は財政出動でバラマキが必要だとして、いつまでも官僚や政治家に頼り切り、任せきりで良いのか?

さも、官僚や政治家が「公」であるかのような錯覚をしていて良いのか。

官僚(とくっついている政治家)は、公でも何でもありません。

本来の公は皇室のはずで、いかに権力を握っていても「公」ではないのが日本の伝統です。

官と公は違う。この意識をどれだけの人が持てるか。本当に生き残る人は、こうした理念を理解している人だと信じ、発信します。

 

 

 

 

 

 

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