主人公、風越信吾はとにかく政治家に対する態度が横柄である。完全に官僚としての矩を超えている。
代表的な例をあげていこう。
5頁では、風越信吾官房秘書課長は、上着もネクタイも着けずワイシャツの襟ボタンをはずし、両腕の袖をまくりあげて、ネクタイはもちろん、きちんと上着をつけていた通産大臣を見下すように、答弁の域を超えた「雄弁」をふるう。
延々3頁にわたる風越の「雄弁」を聞かされた大臣(石橋湛山がモデル)、日頃この課長が若い部下に吹聴している「おれたちは、国家に雇われている。大臣に雇われているわけじゃないんだ。」との言葉を不快な念とともに思い出す。
確かに、長い自民党政権下では一年ごとに政変か内閣改造があり、しかも大臣が必ずしもその官庁の行政に通暁しているとは限らない。大臣更迭のたびに一から、その省庁の仕事について御説明(レクチャー=レクと呼ばれる)をしなければならない非効率は、問題にしてよかろう。時の政治の都合に左右されず、仕事を行いたいという公務員としての心情は理解できる。
しかし、日本のような議院内閣制における大臣は、選挙で選ばれた国会議員である。たとえ民間人大臣であっても、衆議院の首班指名で選ばれた内閣総理大臣によって任命されているのである。つまり、国民の代表として国務大臣に就任しているのであり、その省庁の行政に責任を有しているのである。国民の代表に対する敬意は必要であろう。少なくとも、風越のように社会人としての礼儀を欠いて良い道理は思いつかない。
ところが城山の原作では、「次官でもなく、局長でもない」「一課長にすぎない」と、一官僚にすぎないことが強調される。選挙で選ばれた国会議員や大臣よりも、一官僚の方が偉いと強調されるのである。その一官僚が国を思っているからであろうか。では、戦前の陸軍省軍務局長が閣僚人事に容喙したり、関東軍の大佐や中佐(課長・課長補佐級)が満洲事変を現地の独断で遂行したのとどう違うのであろうか。
ちなみに前者の総理は城山が悲劇の文官とする廣田弘毅であり、後者の内閣は同じく城山が称揚する井上準之助が中心であった民政党政権である。城山作品を並べてみても、整合性がない論理なのである。それとも、通産官僚に代表される経済官僚は政治家や議会を軽視しても良いが、戦前の陸軍にはそれは許されないとでも言うのであろうか。
城山三郎と言えば、『落日燃ゆ』や『男子の本懐』に代表されるように、戦前の軍部、特に陸軍の横暴を批難する作品が多く、一官僚にすぎない軍人の横紙破りを批難していたはずである。ところが、手続論としては風越信吾の政治家に対する態度は、城山が批難する陸軍軍人と同じである。彼ら陸軍軍人とて、自己認識では国家を思っていたのである。風越とどこが違うのであろうか。
城山が、同じことをしているに「軍部」だけを糾弾している矛盾の指摘は、若田部昌澄『改革の経済学 回復をもたらす経済政策の条件』(ダイヤモンド社、二〇〇五年)70頁なども参照。
要するに、城山作品は
怒りの矛先の向け方がおかしい!のである。